第9話【花も嵐も】 もっとこちらへ 夏油温泉 <東北>


山深い所にある温泉だった。尾根と谷を幾つも越えたら古ぼけた湯治旅館が軍事収容所のように並んでいた。湯舟は旅館の一番奥にあった。

混浴なので、脱衣場には男も女も入り混じっている。しかも湯舟との仕切りがなく、服を脱いだらそのまま湯舟へ向かって進むと風呂に浸かれる。
湯舟は長方形で、45℃くらいあろうかという熱い源泉が流れ落ち、ゆっくり脱衣場のほうに向かって流れている。だから、まず掛かり湯をするときのお湯は一番温いお湯なのです。

ところが、元々熱い湯が流れ込んでいるのを知らない人は「あららら」と驚き周囲を見回すことが多い。どこかに温いところがあるのではと思うのだろう。
そこで、「あらら」と思った女性と湯舟の片隅にいる男性と視線が合う。もちろん私とも視線を交わすが、湯治になれている男性がいて親切にも対岸からしきりに声を掛けてやっている。

男性が
「もっとこっち。こっちの方が温いから」
といって上流のほうを指さしている。教えてもらった女性は、無言でそちらに移動する。

「もっとずっと奥の方よ」と男性が言う。
「ほんとうですかねぇ」と女性が呟く。

そんなことを繰り返しながら女性は男性の言葉を信じ、上流の方に屈んだまま小刻みに蟹のような横歩きをする。行く方向が意地悪にも上流なのだから、お湯が温くなるわけがない。逆に熱くて入り辛くなってくる。

どうしてもアソコを隠すタオルを持つ手が疎かになり、対岸の方に腰掛けた私からは、見てはいけないものまで見えてしまいそうになる。というかマル見えになってしまっていた。

男性が彼女と知り合いだったのかどうかはわからないが、そういう雰囲気が意地悪だというまえに、会話自体が浴場の雰囲気を非常に和ませてゆく。罪が多少あったとしても終いには許し合えているのだ。

人間が自然に還ればこういうふうに振る舞い、一緒に湯舟に浸かり、身も心もほんとうの意味で清くなり、病も直り、ストレスも消え去ってしまうだろう。
夏油温泉までの山岳道路は、狭くて長い。自動車が少ない時代はそれはそれは途轍もなく秘湯だったことだろう。

人は、人と暮らし、大勢で社会を築き、利害を対立させ、いがみ合いをし始めたころから侵略という概念を持ち始めたのだとすれば、この湯治場の建物の中を通り過ぎるとき、時空を越えてユートピアに降り立ったような錯覚に私は襲われた。

湯の効用や知名度などとは別に私はこの湯舟での出来事が強烈に印象に残り、ますます東北の温泉ファンになっていってしまうのでした。