あの夏、のこと ─転倒─

2006年 01月 31日


私の周囲からは全ての音が消え去ってしまってゆく。

約束の時刻になってもやってこないのはきっと何か異変があったに違いない。そう考えると想像は良からぬ方向に崩れるように広がる。

私が教えた奥志賀スーパー林道に行っているのではないだろうか。興味を持つと自分を見失うほどに夢中になる性格だから、無謀であることも気づかずに奥志賀を走り抜けてここまでやって来ようと考えているのではないか。

奥志賀林道は、一部にまだ未舗装が残っているし、距離も長い。それなりに経験を積んだ人でも2時間ほど林道を走り続ければ、緊張が緩む瞬間だってあるはずだ。無茶をしていなければよいが、と思った。人っ子ひとり、居ないかもしれない林道で転倒したりしてはいないだろうか。

時間がコツコツと過ぎる。道の駅に立ち寄る旅人たちや露店のおばちゃんたちの話し声さえ、もはや気に止まることはなく、湯沢温泉のほうからやってくるバイクの姿だけを私は必死で見つめていた。

あの人はいつも、優駿に跨り颯爽と野を駆ける騎士のようにバイクを走らせた。その姿が私の瞼に焼き付いていたので、黒い革のズボンをはき、赤いジャケットを纏って、背筋を伸ばした1台のバイクが向こうからやってくるのが見えたときは、腰が抜けるほどホッとした。

いち早く私を見つけ、メットを脱ぎ、そばかすだらけの真っ白な顔をクシャクシャにして駆け寄って、「山の中のカーブで転んだの・・・」と言った途端に、身体じゅうの力が抜けるように私に倒れこんで泣き出してしまった。

つづく