秋に、笑顔で

2006年 09月 16日


真夏に別れてきたあの人と、深まる秋に、もう一度だけ「さようなら」をいう機会があった。

肌に纏わりつく陽射しは、もはや、皮膚から腕の芯まで突き刺さってくるほど強くはなく、秋という季節に変わって、優しく冷たく柔らかく私を包んでいてくれた。その優しさが身体じゅうの背中から腰までを異様に温めてくれて、妙なほどに私は素直で無口になっていた。

もしも、「さようなら」を言うときに、熱くもう一度抱きしめてやれるなら、言葉を忘れてしまったように語れなくなったに違いない。頭の中で「やっぱり好きだ」と嘘をつこうとするけど、金縛りにあったようになっていったのかもしれない。もしも、その心をストレートに大声で叫んだとしても、あのときは許されたのかもしれない。

あの人が好きだったもの、その食べ物や映画、音楽などなど、何ひとつ思い出してあげることもできないまま、ただ目の前にある同じ景色を見つめながら、
「この写真、返すわ。夏に撮ったやつよ」
と、か弱くいいすてて二枚の写真を渡した。

誰かに見られないように肩と肩が軽く触れ合うほどに寄り添い、背中のほうから腕を回して抱き合うように寄り添い、あの人の手にしっかりと握らせた。

あの人の声が小さく何かを呟く。なんて言ったのだろう。

もう好きになんかなれないよ…だったら救われる。
もう絶対に会わないから…だったら、哀しい。
また会えるかも…だったら、どうしてそんな優しい人と別れなければならないのと悔やんだのかもしれない。

真相は、わからない。あの人の心の奥を何ひとつ知らなかったのだから、私は、別れる宿命にあったのだろう。

朝陽はすでに首を傾げねばならない高さまで昇り始めていた。
あの人が私から離れてゆく。
消えてゆく。

これまで、どこで「さようなら」をしてもいつも必ず雨がつきものだったのに、あの日はやけに眩しいばかりの秋の空だった。鳥も飛んでいない。飛行機雲も、白い綿のような雲もない。

「じゃあ」と言った。

あれが最後に見たあの人の顔だった。
笑顔だった。

つづく