終楽章(5) 言い出せなくて

2007年 06月 12日


その日、権兵衛峠を越えた。狭くて曲りくねった山岳国道だ。この子にしたら初めての険しい峠越えだったかもしれない。黙って私の後ろについて走ってきた。雪を被った南アルプスが峰の隙間に見えるところで休憩をした。

─ ねえ、さみしいね。山の中はさみしいよ
花が咲いても、名前さえも知らないし
ただ、白い花だっていうだけで
鳥が啼いても、やっぱし名前を知らないし
姿も見えないし

さみしいっていう漢字は、さんずいへんなんだよね。
水があるの。
それって、涙を流すからなのかな
淋しいって書くのよ

私はこの子を無性に抱き寄せたかった。
いっそうのこと身体じゅうの骨が折れてしまっても構わないほど、きつく抱しめていたい衝動に駆られた。何故なら、彼女の母さんが昔、あの子を置いて家を飛びだした話を、私は思い出していたからだった。

お父さんが母さんを蹴っていたのを見た覚えがあるとこの子はいう。しばらくして、母さんが家を出ていってしまい、父と妹と自分の3人暮しがはじまったという。そのとき、妹は低学年で、自分は高学年。初めての生理のときも父がいろいろと教えてくれたけど、母に似ていた自分は、父親からは大事にされることは滅多になかったという。むしろ、ファザーファッカー(内田春菊著)の小説のような毎日だったという。だから、高校卒業と同時に逃げるように家を飛び出したのだった。

この子は、いったい、どんな淋しい思いをしてきたのだろうか。どんな悲しい思いを堪えて今まで生きて来たのだろうか。

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テントのジッパーを下げて小窓を少し開くと、冷気が首筋の脇をすり抜けるように部屋の中へと流れ込んだ。山の匂いがする。いや、森の匂いというほうが正しかったのかもしれない。甘くて、ちょいとカビ臭いかもしれない。

真暗な夜空を見上げながら、無言の時間が過ぎてゆく。

峠で落ちあう前には、何度もドラマのセリフのように自分に言い聞かせていたのに、私は別れのひとことを何も言い出せない。

彼女は今日走ってきた峠道を、地図の上にペンで辿りながら、横目でこちらを見てはニコニコと笑っている。

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大きな嘘をついて
夢のような未来を語って
手を握り合ったまま朝日を迎えよう

そして
そこで
僕たちは別れよう

キミには僕よりもっと頼れる人が居るはずだし
新しい幸せが待っているはずだから

私には、
そんなことなど、
言い出せない・・・・