終楽章(8) ─ さようなら ─

2008年 04月 12日


あんなふうに電話を切って別れたあとで、少しずつひろちゃんのことがわかってきたな、と思うことがある。

「お母さんは可哀相だったんだよ」と何度も繰り返したのは、あの子の精一杯のツッパリだったのではなかったのか。

「お父さんはお母さんおなかを蹴ってたんだ」と話していたのが作り話だったわけではないだろうけど、本当はお父さんが可哀相だったのではないか。

つまり、お母さんにオトコができて、二人の娘を置いたまま、朝になったら姿を消していたのではないのかい。

今更、そのことをひろちゃんに尋ねることなどできないが、「エロじじい」と私に向かって叫んでいるあの子の姿を電話の向こうに想像しながら、「構わないよ、奥さん棄てて逃げてくればいいんだよ。誰だってそうしてるよ。私が好きな人を奪って逃げていくのは悪いことじゃないよ」と感情も高ぶらせることなく話していたあの子の可愛い悪魔のような顔が思い浮かぶ。

ひろちゃんは、母親譲りの気性で、母が男と逃げたのと同じように、私と出会った後に私を連れて逃げようとしたのだった。その行動力の素早さに私が付いて行けなくて、尻込みしてしまったというのが顛末だった。

そう。
私はひろちゃんに恐怖感を感じたことがあった。この子は一途に私を捉まえて一目散にダッシュをするだろう。私には私の手続きがあるのだが、それをも許さない勢いだった。このままでは、空中分解になってしまう。

しかし、
そんな状況においても、彼女が可愛くてしかたがなかった。棄ててしまうことなど出来なかった。

物理学における力学でも説明できない不合理な力が二人の関係に働けば、もうバラバラになるしかない。エロかった関係も甘かった日々も、すべてが憎むべき過去になってしまう。

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或る冬の日に、ひろちゃんはひとりの男性と出会った。それは、運命を大きく変えてくれる大切な人だった。

いつものようにモーニング・メールを受信したひろちゃんは、「いったいどういうつもりなのよ。私たちはもうオシマイよ」、と冷たくヒステリックなメールを送り返した。

その後、お互いの醜い関係を罵り合う場面もあったものの、物語はそこで終わりを迎えることとなった。

村下孝蔵が「初恋」という歌の中で

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五月雨は緑色
悲しくさせたよ 一人の午後は
恋をして淋しくて
届かぬ想いを暖めていた

好きだよと言えずに初恋は
ふりこ細工の心
放課後の校庭を走る君がいた
遠くで僕はいつでも君を探してた
浅い夢だから胸をはなれない
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と、歌った。

ひろちゃんを、
ほんとうは、遠くへ連れ去りたかった。
でも、魔性のような怖さがあった。
儚く浅い夢は、そこで終わったのだった。