あの子のこと その4
ねえ、あなたの地方の太陽が沈む色は私のところの色とは全然違って真っ白に見えるわ。私の太陽はもっと赤くてもっと大きいような気がするの。東北の太陽は本当に赤く燃えながら沈むのだろうか、と私は素直に思った。理屈など考えなかった。じゃあ、一度、君の生まれた村に太陽が沈むのを見に行こうじゃないか。夏になったら行こう。私はそう言い返して黙ってしまった。無口は嫌いだよ、何か喋って欲しいよ、とすかさず彼女は言う。決して大声でもなく話題が豊富でもないが彼女はおしゃべりだった。喋るのが好きであった。まるで喋る友達が今まで居なかったのではないか、と思わせるほどだった。〔7月11日そのU〕
桜並木は新緑の葉で満ちていた。その木陰から大きな湖を眺め下ろして、白い花を見つけた後、家に帰る心の準備をし始めた。太古の昔に湖が残してくれた平野の中を、言葉を交わすことも無く、ただひたすら家路を想って高速道路のインターに向かった。比叡の山に懸かった黒い雲は、早苗の広がる水田地帯に不吉な風を吹かせ始めた。お互いに雨の心配事を言葉に出さず、SLが走っているのを眺めた。煙突から吐き出す煙が風で散らばってしまう。あれだけ喋りまくったのに、別れ間際には私たちは無言だった。「もう行かなきゃ…」。インターで手を振って見送った直後に豪雨が私を追い越してこの子の去った東の方角へと駆けてゆく。〔7月12日〕
彼女は自分の名前を告げずに去って行った、にもかかわらず数日後に私あてにメールをよこした、そこにはあの日のお礼とインターで別れた後のことが綴ってあった。ちょうどパーキングでトイレ休憩に入ったところに大粒の雨が襲ってきたという。強い運に支えられて、したたかに生きて行く野性的な性格を彼女は備え持っていた。それは動物がジャングルで生き延びるために持つ獲物に執着する天性の野性味のようなもので、彼女がこれまで生きてきた環境によって培われた霊感のような能力でもある。そのしたたかさが不吉な予感のように私には怖かった。或る日、もしも大喧嘩をするとしたら、それは彼女との距離を錯覚してしまい、自分を見失ったときではないか、とも思った。〔7月14日〕
彼女のことをなるべく記憶に残さないようにしようと努めていても、彼女から届くメールがトリガーになって過去が戻ってきた。1,2年前に桑の実を探しに行きたいというメッセージをネットワーク会議室で読んだことがあったが、その発言者がこの子だったことをメールで初めて知った。子どものころ、優しかった父親に連れられて桑の実を摘んだ思い出があり、もう一度、その実を摘んで食べてみたいという。信州は養蚕が盛んであった地方だから、何処かの町に昔からの桑畑が残り実が成っているのではないか、と私は考えた。とにかく信州に行ってみるしかない。春の終わりを締めくくった黄金週間の旅日記をまとめあげる前に、私は桑の実を探す旅に出た。〔7月16日〕
どうしても彼女のことを切り離したい。日記にさえも登場させたくない。私は私であるし、ひとり旅をすることをひとつの像としてきたのだから、そこに彼女が割り込んで入ってきたことを腹立たしく感じた。猫のように甘えて見せるひとときがあり、ひとりで獲物を狙う隼のようなスタンスでいる彼女が邪魔であり恐怖でもあった。しかし次第に彼女は私の拠り所になりつつあった。5月末、梅雨の走りの合間に桑の実を探すために天竜川を遡り、木曽山脈を越える峠の入口で二人は待ち合わせをした。雨上がりの天竜川はチョコレート色の濁流となり、私を地獄に引きずり込んでしまうぞと脅すかのように横たわっていた。南アルプスのあの透き通った雪解け水がどこでこんな泥水に変わるのか。〔7月17日〕
「ねえ、私のことをこれからは基花と呼んでよ。」待ち合わせ場所に現れた彼女は、バイク停車させると同時にそう叫んでいた。きっと高速道路を飛ばしてくる間も、1ヶ月ぶりに顔を見せるのだから、最初に何から話し始めようかをずっと考え続けてきたのだろう。待ち合わせの橋の上から川を眺める私の姿を見つけて、手を振らずにじっと我慢をしたのだろう。基花、基花と口ずさみながらやって来て、自分の体重の3倍ほどもあるバイクを止め、よろけるように降りて彼女はそう言ったのだった。桑の実のあてなど私にはまったくなかった。山の斜面に沿って峠を越えてゆけば野生の桑の実があるかもしれない、と考えていたが、どうでもいいような気も湧いてきて、特別な打ち合わせもせずに伊那谷から木曾谷へと峠道を二人は越え始めた。〔7月18日〕
「さびしいという字には人がいないんだよ、ほら、淋しいってこう書くでしょ」と言って人差し指で宙に山水偏に林を描いて見せた。その字の向こうには緑の山脈があり、覆い被さるように南アルプスの白い嶺が鮮やかに青空に映えている。峠の森には人っ子ひとりいない。車も通らない。1時間以上峠道を走り続けて来ても誰ともすれ違わない。しかし、人が居ないということは、ほんとうに淋しいことなんだろうか。鳥がさえずり、樹木たちがざわめく林に居て風に吹かれていれば、淋しいという言葉なんて遥か昔の人々が考え出した夢を叶えるためのお呪いのようなものであったのかもしれない、と思えてくる。二人でいれば何処に淋しいという概念が生まれてくるのか。そんな言葉など不要だ。青い空を見上げながら無言の時間が過ぎる。〔7月19日〕
次章に続く