ねえ僕たち暑くなりすぎている(怯え)

彼女は猫のように私の脇に居て、私をいつも見上げて、見つめてくれた。何日もの旅のなかで、人生の重さやこれからの人生設計について存分に話したつもりだったのに、夜になると、昨日の話を忘れたかのように「10年後の私たちは・・・」と熱くなって語り合っていたのだった。

私は怖さを感じ始めた。彼女の一途な性格と爆発しそうな熱い心に、私の人生がもしかしたら狂ってゆく、いや、もはや狂い始めているのかもしれないと気付き始めたからであろう。

必ず精算して、やがてどこかで暮らそう、その日がきっと来ると信じている、としか、私から彼女には言ってあげられなかった。当然、彼女はそのことが気に入らなかったのだろう。再会をするたびに私の薬指から指輪を奪い取り、私の財布の中に入れてしまう。それが私の財布だったのは、再び指輪を元の指に戻さねばならない現実を認めていたことと、自分自身の焦りを隠すためだったのだと思う。でも、彼女の苛立ちや焦りを私は見逃さなかった。

旅はあてもなく山村に向かって続いてゆく。冬枯れた峠への細い道をのぼりながら、この山を越えたらいったん彼女を家に帰し、私も旅を中断しようと考えた。

「遠い遠い北の国の鄙びた村に行こうと思うの。」

北の鄙びた村のことを基花が話すのは初めてではなかった。子供のころに父に腕を引かれてディーゼルカーに乗って、雪がたくさん残っている村を訪ねた記憶があるという話や、そこが父の生まれ故郷で近所に親戚の従兄弟たちがたくさんいたという話をして、懐かしがっていた。その一方、心の隅にある父への憎しみから来る嫌悪を隠せずに、町に対する拒絶の心も見せた。彼女の心はまだら模様だったのだろう。

「春になったらバイクを飛ばそう。僕たち、お互い、冬の間は家に篭もって準備をしようよ。遠距離恋愛みたいなもんだよ。」
私は思い切ってそう言った。しかし、すぐに
「いやだ、すぐに行きたいと私は思う。」
と彼女は言う。

頑固さがあった。母に棄てられ父に当り散らされ憎まれて育てられた屈折が彼女の心のどこかにあって、愛する人への執着心になって現れる時があったのだ。だから、それ以上、そのことに触れることなく夜になるまで無言でいて、寝床で夢の話に付き合った。

早く、見知らぬ山村に行きたい気持ちは私にも確かにあった。しかし・・・闇のように大きく、海のように重い恐怖が私にのしかかってくるようでひとときも落ち着かない。私の怯える気配を見ないふりをして、彼女は私の身体を攻めてくる。私は空を見上げている。すばるが南西の空に見えた。凍えるように寒い夜だった。やっぱし、峠を越えたら旅を中断しよう。

〔次章に続く〕