2月4日号 立春篇

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立春が過ぎて安堵の朝寝かな 

お正月が終わったなとほっとしているとあっという間に節分、立春がやってくる。理の通り満月ですが、この月がまったく冷たそうには見えないから不思議なものです。

風は冷たいし、道路標示の温度計は1℃とか2℃という朝もある。先日など、夕刻の帰り道で0℃というのを見つけて、あら、今年初めての氷点だね、と車の中でつぶやいてしまいました。

春は名のみの/風の寒さや/谷の鴬/歌は思えど/時にあらずと/声も立てず と歌う早春賦を思い浮かべる人も多いことでしょう。

日暮れの時刻が目に見えて遅くなっています。私の職場が閉館する時刻が17時30分ですが、まだそのころには明るいなと感じます。真冬ですと、四日市市のコンビナートから桑名市、遠くは名古屋市の明かりが揺れていたものですが、今は湾岸のラインがまだ夕焼けに染まっているのが見渡せます。

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立春に母を訪ねておかき食う  

今年の節分には豆を食わなかったなあ、と感じて、そういえばかき餅を近頃は食べないなー、と感じ、こんな句を作ってみた。

子どものころには、真剣に玄関から外に向かって豆を投げつけたものだ。豆まきは一年のうちでとても大事な行事だった。寒い冬は、こたつのそばに炭のおこった火鉢が置いてあることがあった。台所の釜や風呂の残り火で湯を沸かしていたのか、母が何かを煮焚きをしていたのだった。

炭火を見ると必ずといっていいほど、お餅やかき餅を焼いたり、あられを炒って食べたものだった。炭火は赤外線を放出するので顔が火照り、手をかざすと身体の芯まで温まる。煙たいのが難点だった。

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スローという言葉が蘇えっている。人はどうしてスローな暮らしを棄ててしまったのだろうか。そんなことを、赤々と熱腺を放ち出す炭を見ながら思う。

効率とか合理性とか損益分岐などという言葉を聞くたびに、地球はすべてを知っていて、温暖化現象は地球の生命の存続過程の上にあって、ひとつの筋書きなのかもしれないと思うことがある。きっと正しい。共に罰を食らうときにわかるだろう。科学と哲学の戦いだ。