あの子のこと その2
彼女が貞心尼の話をしてくれた。長岡藩士・奥村五兵衛門の娘として生まれた貞心尼は、幼いころ母と死別し乳母に育てられた。文学好きでふっくらとした美少女だったという。17歳で結婚するが、6年ほどで離婚し23歳のとき閻王寺にて髪を落とした。父と言い争い家を出て行ってしまった自分の母の面影を追い、幼い頃に裏の河原で水遊びをしてくれた父の姿を思い、さらにひとりぽっちになってしまっている自分とを貞心尼にオーバーラップさせていたのだろう。〔7月3日Tその1〕
雨が上がって、長野県から新潟県へと県境を越えた。彼女は良寛と貞心尼を思い詰めてか、少し無口になっていた。私たちの旅は二日目に入っていた。このまま地の果てまで一緒に行けたらどれほど幸せだろう、そう何度も思いながらも、二人の実らぬ恋を私は案じていた。閻魔堂へと峠を越えるか、それとも子どもの頃に父と水遊びをした裏の河原を探しに文字村を目指すのか、彼女は悩んでいた。私の迷いは、緑に萌える越後の山塊を見ても依然と燻っていた。〔7月3日その2〕
千曲川は名前を信濃川と変えている。およそ今までに出会ったことのないような豊富な水を抱え込み、蛇行することもなく悠々と流れている。河岸段丘を眺め下ろしたり、津南という町の小さな温泉に浸かったりしながら私たちは川沿いを下流へと走ってゆく。二人には会話など不要だった。ひとりごとをいう私の口の動きを正確に捉えて理解しているかのように、バックミラーに映る彼女の笑顔はにこやかに反応していた。幹線国道の通行止めで少し迂回をした。そのときも私が止めたバイクに歩み寄り、君について行くよ、と言ってまた自分のバイクに戻っていった。〔7月4日〕
二人でいれば怖いものなどなかった。とりわけ不幸せが私たちを襲ってくるような不安はなかった。人里を離れた寂しい村を目指して旅は続く。やがて私たちは結ばれて、温もりのある小さなペンションを何処かで始めたいね、と語り合い、そして見つめあった。森立峠を越えればそこには閻魔堂があるけど、そこへ向かう交差点を左折せずにさらに北へとゆく道を選んだ。もしもこのまま二人がはぐれたとしても、三年後の今日かもしれないし五年後の今日かもしれないけど、私たちは文字村に辿り着くこの道のりの何処かで必ず再会できるような赤い糸で結ばれている、と彼女は言った。〔7月5日そのT〕
父の冷たい仕打ちに絶えながらも、学費だけは稼ごうと思ってバイトだけはやっていた。その疲れた身体を教室の片隅で休ませていても、深夜に風俗でバイトをしてるんじゃねぇか、と疑ったり、三日ほど風邪で寝込んでも、子どもができたんじゃねぇか、と担任は冷たく怒鳴ったという。進学校で成績もよかったけど、不運でお金がなかったし、家を出てからも何度も何度も男に騙されてしまった過去を、彼女は打ち明けた。昔を思い出して俯いてしまう姿を見つめていると何も言葉も掛けられず、私はただ手を握り締めるしかなかった。あの夜、星を見ようと言ってテントを出た彼女をその場できつく抱きしめた。〔7月5日そのU〕
続く