| あの子のこと その3 |
| 二人が初めて出会ったあの年の春、大きな湖を見下ろす高台の展望台から、遠くに見える断崖の果ての水際に小さくひとつ咲いている白い花を見て、あの花はなんという花なのだろう・・・と彼女は何度も繰り返し呟いていた。湖面に今にも吸い込まれてしまいそうな急斜面の茂みの中にポツンとひとつだけ白い花が咲いている。自分の生きざまのように感じていたのか。幾度となく旅は繰り返され、その終わりは夏だった。木槿(むくげ)の花が好きだと彼女は口癖のように言った。出会うまでは気にも懸けなかった地味な花だが、旅の途中の街道沿いに並んで咲いていたのが痛々しい記憶として残る。決して美しくもなく香りも放たない。寂しい花だと、今になってしみじみ、そう思う。〔7月6日〕
七夕さまの夜になるといつも必ず思い出す。旅先のテントの中で星空を見上げながら自分のちっぽけさをいつも嘆いていた。どうして空が青いと元気が出てきて空が暗いと反省ばかりが浮かんでくるのと呟いた。今夜は昨日よりも星が瞬くから私たち神様に見つめられているんだよと言ったあと、五年後でも十年後でもいいからこの空の下の何処かで私たちは二人で幸せに暮らしていたいねとも言った。許されない愛を人は悪意を込めて不倫だと罵るけどこんな情熱的でまじめな恋はないよ。深夜の森に包まれている。鳥たちの声が消えて私たちの愛が触れ合う音だけになってしまう。身体の奥まで痺れてゆく。〔7月7日〕 猫って主人に媚びるわけでもなくて気ままだけれど、私はそんな生きかたよりも鳥のように生きたい。明日になればもっと強い獣たちに命を狙われるかもしれなくとも、自分の力で地面も空も自由に選んで、私を狙っているヤツラを見下ろしていたい。彼女は話し続けた。私だって大勢で仲良く暮らしたいし、家族も大事にして仲睦まじく生きていたい。でもね、人間なんて考えていることは所詮わがままで勝手なんだよ。いつかひとりで社会の放り出されてしまうんだよ。私たちのように恋人同志だったら力を合わせて…ねえ、新しい家を建ててペンションを始めるの。海の見える高台で、窓を開ければ水平線に朝陽が昇るんだよ。〔7月10日〕 この子が夢を語ると、身につまされような現実感とそこから永遠に逃避しようとする虚脱感のようなものに襲われる。じわりと彼女の不幸が私にのしかかり、彼女の幸せは私にしか叶えられないんだという呪縛のようなものが私に取り付く。初めて会った朝が不思議だった。京都の古寺の山門前で彼女は佇んでいた。何かの拍子に彼女が置いたバイクが倒れそうになった瞬間に、偶然、私がその前を通りかかり、そこから会話が始まった。別段、可愛らしくもなく、ファッショナブルでもない。全身じゅうが埃臭く髪がボサボサで、田舎っぺの女の子だ。ニコニコと私を見つめて愛想がやけに良かった。騙されないぞと思いながら一緒に古寺の拝観券を買った。〔7月11日そのT〕 |
| 続く |