あの子のこと その1 | |
その子のこと1
〔塵埃秘帖6月号から〕 これでお別れだと決めた夜にも私はその子を抱いていた。別れ話を口にできずただひたすら手を握りしめた。二人で幸せになるんだと信じて何も疑わないその子を、ポイと海に放り投げるように突き放して、別れてしまった遠い夏。あの夏も雨が幾度となく旅の私をいじめた。雨があがると蒸し暑い朝を迎えた。大きな橋を渡った後に、川霧を見おろしながら私は言った。「・・・」あの子は何も返事をしないままそれきり一度も振り返ろうとしなかった。別れの瞬間だった。 〔6月12日〕あの子には鳥のように自由にふるまう気ままさがあった。誰にも束縛されずに大空にひとりいて、地上の獲物を狙っていた。ときには、甘えた猫のように無抵抗に自分をさらけ出した。私を騙して、抱かれる悪い女でもあった。でもたったひとつだけ、謎を残して消えてしまった。〔6月19日〕 私たちは弱虫同士だけれど、助け合えば必ず成功するよ。十年後の夢をここに描こうよ。この崖から飛び降りようなんて言い出したらダメだよ。〔6月20日〕 別れは突然やってきた。そう、風に吹き飛ばされる麦藁帽子のように私の前からアイツは消えてしまった。〔6月23日〕 あの日も雨が激しく降っていた。夕暮れ前に買物を済ませて部屋へ戻って、わずかに灯油が残るファンヒーターに火を入れた。何も疑うことなく、惣菜をつまみながら過去を哀しみ、夢を語った。せんべい布団が一枚あるだけのささやかなひとり住まいの部屋に、ほのかに明かりが点ったようだった。横顔が可愛かった。〔6月24日〕 |
〈続・あの日のこと〉二日めになっても雨が降り続いていた。いつから私は雨降りが嫌いになったのだろうか。冷たい雨はその子の首筋から背中へと染みこんでいった。苛立ちを隠せず、服を脱ぎ捨て、ひでぇ男に騙された夜のことをポツリポツリと話し始めた。〔6月25日〕 桑の実を摘んで食べた。お父さんは優しくて、いっぱい摘んでくれた。でも、時には鬼ような父の姿もあった。暴力をふるう父。妹だけを大事にして、姉である彼女には、去っていった妻の仇のように冷たく当たった。だから18歳で家を出たという。そこは多摩川沿いのボロアパートだった。〔6月27日〕 あれは湘南の海岸だったんだとあとで気がついた。彼女は自分の哀しくて醜かった過去をひとりで握りつぶしながら私を海に誘った。雨は嵐のように吹き荒れ、砂浜は悪夢の舞台のように乱れた。この子は私にとって重苦しい子なのかもしれないという予感がそのとき走った。筋書きのないドラマだった。まだ私は決め兼ねていた。〔6月28日〕 poetic。 君をさらってどこまでも走り続けてゆけるなら僕は深い深い幸せに酔いしれることができるだろうけれど、いつか二人が無言になって不安を語ろうとしない時間がやってくるに違いない。そのとき、僕は君の手を取ってあの山の向こうへと旅を続けられるだろうか。そんな勇気があるだろうか。ねえ、どこまで、そして何故、私たちは走るの?君の問いかけは厳しい。僕には迷いがあったのだ。〔7月2日〕 |