| あの子のこと その5 | |
| ほら,君はまた空を見上げている…。いくら一生懸命に空を見てもあの山のずっと向こうにある君の古里へ、僕たちはそう簡単に行けやしない。山を越えるだけなら誰にでもできるさ。難しいのは、あの里山に住んでいた人々を、今になって許してあげられるかどうかだと思うよ。君と僕が旅を始めるきっかけは大昔に君が水遊びをした川原に行って、石ころを積んで遊んだあのころを思い出すことなんだ。裸足で川原を駆ける君の面影と、君を育んでくれた山や川に僕は出会うことなんだ。そこで僕も一緒になって空を見上げてみるよ。君の過去の苦しみは簡単に消えやしないけど、力を合わせれば新しい未来がやってくる。二人で青空にとけてゆけたら僕たちは魔法の世界で結ばれるのかもしれない。〔7月21日〕
もっかの本名は基花という。いつも一番最初に名前を覚えてもらえるようにと父が付けてくれたという。この子は他人に基花と呼ばれるのが嫌だった。高校時代の成績は優秀だったが、負けん気が強かったので仲間が少なかったし、小学生の時に母が家を出てしまったことが負い目だった。父は妹ばかりを大事にして、茶碗が洗ってないと姉の基花を叱り、自分が仕事で不愉快なことがあっても基花に当り散らした。だから家での居心地は決して良くなく、帰り道にあるファーストフードでアルバイトをして、遅く帰るのが彼女の日常だった。学費もろくに出してくれなかったので辛くても働いた。眠そうにしている彼女を担任は辛辣に攻めた。「男相手の仕事かい?」となじった。しかし、それ以上にクラスメートに基花と呼び捨てにされることが彼女には最も辛いことだったという。私は真摯に生きてるんだ、と怒りが込み上がったという。〔7月22日〕 担任が「基花」と呼び捨てにし、クラスメートも同じようにそう呼ぶのがどうしても好きになれなかった、と基花はいう。さぞかし辛かったのだろう。傷は相当に深い。友達はたくさんいたように見えたが、受験が山を迎えるとみんなは去って行き、貧乏で大学に進学などできそうにない基花は、自力でゆける専門学校に進んだ。頭は良かったので学校での成績は上位で就職にも困らなかった。高校を出てまもなく家を出て多摩川沿いにアパートを借りて住んだ。専門学校に行きながらもバイトは続けていた。お金に困ったこともあって、少しヤバイ仕事にも手を染めたという。風俗かどうか、そのことまでは基花の口からは語られなかったが、二十歳前のころのことを尋ねても何も私には話さなかった。言いたくない、死んだほうがマシだ、と言って止まなかった。〔8月3日〕 私は彼女を基花とは呼びたくなかったが、結局のところ呼び名に困った。親しみを込めて「基花ちゃん」と呼んでも許されただろうが、そうも呼ばなかった。内心では、基花という名前が私には宝物のように思えてむやみに呼ばずにいたかったのだろうと思う。取っておきのときに呼ぶためにしまっておこう。そう思った。新しい名前を考え出せば、過去をそこに残して、また新しくこれからを始めることができるような気がした。しかし考えても考えてもいい呼び名が決まらず、そうこうしている間に私は彼女を「基花」と呼ぶようになってゆく。〔8月4日〕 |
月日はあっという間に過ぎてゆく。旅は続く。私たちは読み切り小説のような旅をふたりだけで続けた。
基花のことが好きだったのかというと、熱烈ではなかった。あれから基花の昔話をテントの中で聞く夜を何度も過ごした。月に2度ほど、野営場所を打ち合わせて、テントで夜を過ごすという日々が続いた。〔8月某日(忘日)〕
基花は一人用にしては少し大きめのテントを持っていた。昔の恋人がアパートに置いていってしまったのだという。その話を聞いて私は彼女の過去が気になった。しかし、お互いの辛いところには触れ合わないでいようという約束ごとのようなものもあって、基花が思い出したくないことには、私からも触れようとしなかった。基花が私をどう思っているのか、わからないまま私はテントで夜を過ごし、一緒に星空を見上げた。真っ暗闇の草原で星を見た。言葉もなく抱きしめた。「僕と暮らそう」とつぶやくように私は言った。〔9月7日〕 真夜中に御嶽山の真っ白い雪は見えなかったが、うっすらと山の形が見えるほどの月の明かりがあった。いつまでもいつまでも抱きしめていたいけど、これから何が起こるのかを想像すると怖かった。ふたりでどこか遠いところに逃げてゆくのか、ひっそりと山の中で暮らすのか。それとも都会で誰にも邪魔されずに暮らすのか。夢は果てしないが、そんなに簡単に実現できるとも思えない。私は独身ではなかったし、おいそれと彼女のもとに走るには民法的にも人道的も解決せねばならない難題が山積だった。しかし、大きな不安を持ちながらも、直感のようなもので彼女を抱きしめている自分が怖かった。〔9月18日〕 明くる朝、基花よりも早く目がさめたのでテントを抜け出し草原に散歩に出た。迷いが二日酔いの毒素のように身体にこびり付いているのがわかる。彼女を幸せにすることができるのは私しかいない、という強い信念がある一方で、現実の波もたやすく想像できた。数十分の散歩を終えてテントに戻ろうとすると、遠くから彼女が朝の食事の支度をしている姿が見えた。軽やかに跳ぶようにテントの周りで火を起こしスープを作っているらしい。迷いからくる不安に、言い訳を覆い被せるような気持ちで、私はテントに帰り着いた。そこに居た彼女は昨日の彼女ではなかった。妻のように私の片腕に抱きついて朝の挨拶をした。〔9月19日〕 〔次章に続く〕 |