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風に訊け 1号

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自分自身の存在について

 開高 健という作家(?)がいた。「オーパ!」とかいう本を書いた人だ。残念ながら彼の著作を読んだことがないのだが、「週刊プレイボーイ」だったかで、読者の質問コーナーのようなところの回答者として登場していたように記憶している。そのコーナーのタイトルが「風に訊け」となっていて、この言葉が大変気に入ってしまった。彼が意図していたものが何なのかは知らないが、自分なりの勝手な解釈をしてこの言葉を使用している。
 
 さて、その開高 健だが、彼が学生の頃、たぶん大学生の頃だったんだと思うが、何もせずに部屋でごろごろしていて、ふと気づいた。「いろいろなことを考えている自分というものが存在していることは、確かなことだ」と。そこで、この発見を友人に話すと、その友人は、「そんなことは200年以上も前に、デカルトという人が考えていたことだ」と、そっけなく答えた。そのことを聞いて、彼は、がっかりしてしまったそうな。
 
 デカルトというのは哲学者で、「我思う、故に我あり」ということを言い残した人(僕が知らないだけで、もっと何か言ったんだろうけれど)で、このこと故に、デカルトという名前が今も残っているくらい大変な発見だった。この大変な発見に、200年以上後だったとはいえ、彼は至ったわけだ。デカルトのことは社会科で習ったし、そのとき、僕には、「何を当り前のことで・・・」程度の認識でしかなかったが、この世で見えるものだけでなく、見えないもの、感じられないものまでを含めて、その存在の確からしさを疑っていったとき、疑い続けている自分の存在は確かであると気づくことは、容易なことだと思えない。だからこそ、デカルトの名が現在まで残っているわけである。
 
 僕は、今までに多くの時間ごろごろとしてきた。が、開高 健のように思い至ることはなかった。デカルトという哲学者が思いつくようなことを、僕が思いつくわけがないのであって、デカルトが昔、思いつかなければ、思いついた者の名がデカルトの代わりにずっと残るほどのことなわけだ。ということは、開高 健という名が、世界中で残ることになっていたかも知れないということになる。すごいことではないか。彼はもうこの世にいないが、生前に出会ってみたかったひとりだ。
 
 で、自分の存在というものは、どうも確かなようである。ま、これも確実だとは言い切れないような気もするが、とりあえずは、今、ここに、自分というものが存在しているとして差し支えなさそうである。だから、自分自身が存在しているということを認識し、その上で、いろいろなことを考えていきたいと思うが、自分自身とは何かが分からない以上、先へ進むことができなくなってしまう。
 
 自分自身とは、一体全体何なのでしょうか?
 この肉体? この精神? そのどちらも? それとも、そのどちらでもないもの?
 自分自身の存在とは、単独で確立できるもの? それとも、他の存在があって初めて確認できるものなのか?
 
 自分自身とは、一生つき合っていかなければなりません。自分自身をよくみつめて、自分自身を大好きになりましょう。良いところも悪いところも全部ひっくるめて。
 自分自身を嫌いにならないでください。自分自身が、今、ここに存在していることが不幸だなどと思わないでください。自分自身の存在は、この世に必要がなかったなどど考えないでください。他人が自分を好きになってくれなくても、せめて自分ひとりくらいは、自分を好きになってやってもいいんじゃない?
 
 

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