卒業おめでとう。
1年間にわたって「風に訊け」を発行してきたわけだけど、とりあえず、これで終了です。担任になったらこんなことをやろうと考えていたことが実現できて、本当に良かった。今度担任をすることがあれば、「風に訊け U」を出すかも知れないし、タイトルを変えるかも知れないけど、「風に訊け」は、とりあえず、終了です。
第1号を出すときに、あの内容で良いかどうか、かなり悩んだ。反応しすぎる者がいた場合、そのフォローがしっかりできるかどうかが不安だったけど、現実には、そんなことは起こらなかった。喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか。とにかく、スタートしたからには、行ける所まで行くことにした。
B5一枚に収めることにして、頭の中にあることを少しずつ吐き出してきた。1行の文字数、本文の行数をすべて同じにするために、言葉をいろいろ変更したところもあった。そこまで苦労したのに、実は、1行少ない「風に訊け」(何号かは秘密)を発行したことがある。ワープロを打つときに、タイトルの前に空白行があることに気づかなかったのだ。それに気づいたときは、少々ショックだった。だって、その号は、最後の1行をどうやって削ろうかと、苦労したもののひとつなんだから。
「風に訊け」一枚を作製するのにかかった時間は、平均4〜5時間くらい。たいていは、タイトルを考えて、それに合う内容を頭の中から引っぱり出した。記憶があやふやなところは本を調べたし、他の先生の意見を参考にしたこともある。書いてるうちに、タイトルとかけ離れていくこともあって、そのときは、後でタイトルを考え直した。ボツにした原稿ももちろんあったし、毎回、ほとんど1.5倍から2倍の内容の文章を考えて、後で、それをB5に収まるように手直しをした。だから、ときどき、意味のよく理解できない(ほとんどがそうかな?)ところがあったと思う。中には意図的に、分からなくなるように、または他の意味にもとれるように、オブラートで包み込んだのもあった。「風に訊け解説集」を出さなきゃ本当のところは理解してもらえないだろうな。でも、たいていは、そんなことに気づかないだろうから、それはそれで良い。君たちが、これからいろいろな経験を積んでいくうちに、「風に訊け」に書いてあったことは、こういうことだったのかと思うことが、ひとつでもあれば、発行した甲斐があったというものだ。そうして、今の僕の歳に君たちがなったときに、「風に訊け」は、たいしたことないと思ってもらえれば、僕にとっては喜びだ。「理系頭」で生きてきた僕は、「風に訊け」で書いたことに気づくのに、30年近くかかったわけだから、君たちは、それを5年でも10年でも縮めて、もっと先を考えて生きていって欲しい。
頭の中には、まだまだタイトルはあって、その中に「死」というのがある。第1号を出すときからこのことは考えていたけれど、結局、発行できなかった。第1号であれだけ心配して、それは取り越し苦労で終わったけど、このタイトルで発行することにはつながらなかった。メインテーマは「自由」(「平等」もやっておくべきだったなぁ)という中で「死」までもってくると、受験生には重すぎるからね。それに、過激になりすぎる。いくらオブラートに包んだところで隠しきれない過激さが残りそうで、文章にはできなかった。
僕の中には、過激な部分があって、それを包み隠して生きているわけだけど、その過激さの奥には弱い自分が隠れている。自分の弱さを自覚することは大切なことだと思うけど、その弱さを前面に出そうとは思わない。強くなろうとしているときに、弱音を吐いてちゃいけないんだ。どこかの作家が「悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ」と言ったけど、その通りなんだ。弱音を吐くことによって、自分がどんどん弱くなっていく。本当は思うだけでもいけない。強がっていれば良いんだ。やせ我慢をしていれば良いんだ。武士は食わねど高楊枝。ネガティヴな発想は、どこかに閉じ込めてしまわなくちゃいけない。それなのに、最近は、弱さをアピールする人が多くなってきた。弱者は守ってもらえるから、楽なんだ。みんな、自分が被害者だと言う。被害者ばかりが増えてきて、加害者がどこにいるのやら見えなくなってきている。加害者になれと言っているのではない。被害者のふりをするくらいなら、やせ我慢をするべきなんだ。もちろん、やせ我慢をしている者は損をする。所属する社会の中に存在できないくらい損をすることがあるだろう。その、ギリギリのところにきたときに、立ち向かえる強さを身につけていなければならないのだ。
僕の考えがすべて正しいわけではないし、明日になれば逆のことを考えているかも知れない。結局、今、正しいと考えていることを君たちに伝えるしかないわけで、そのことに対して「その通りだ」と思う人は、そう考えればいいし、「間違ってる」と思えば、自分の考えを通せば良い。ただ、こんなことを考えている人間が存在しているんだということを頭の片隅に残しておいてほしい。今の自分が全部を否定したとしても、将来の自分はそれを肯定するかも知れないのだから。
「教育」とは何だろうかと考えたとき、「教育とは、人間性の伝承だ」と言った人がいる。意味はよく分からないのだが、物理を教えても、化学を教えても、SHRやLHRをしても、それは、僕自身を表現する一形態にすぎないということだと解釈している。ただ、すべてをありのままにさらさずに、「教師」を演じているところはあるけれど、演じているのは僕だから、見える人には見えてしまう。だから、君たちは、先生を通して、これから生きて行くであろう社会を見なければいけないのだ。それを少しでもわかりやすくするために、「風に訊け」によってヒントをばらまいたわけなんだ。本当は、君たち一人ひとりにもっと関わって、別々のヒントを与えるべきなんだろうけど、そこまではできなかった。「風に訊け」の感想でも聞かせてくれれば、もう少し突っ込めたんだけどね。
教師になったとき、先輩からいろいろと教えてもらった。その中で、「教育は、絶対に失敗してはならない。」と教わった。不用意なたった一言で君たちを意図していなかった方向に進ませることになったとき、卒業式で「ゴメン。お前の育て方間違えたわ。」とは、言えないということだ。そう考えていると、一歩踏み出すことがどんなに大変なことか。僕なんかは、慎重になってしまうから、どうしても安全限度を大きくとってしまう。君たちの中には、歯痒い思いをする人もいたんではないだろうか。僕の葛藤を見抜かれたことはないだろうとは思っているけど、あのときもう一歩踏み出すべきだったという後悔はいくつもある。失敗をおそれるなと君たちに言っておきながら、言ってる本人が失敗をおそれてるんだから、どうしようもないじゃないかと言わないでくれ。例え僕が泥棒であったとしても、君たちが泥棒をしたときは、きつく叱る。自分のことは棚に上げて、正しいと思うことを言う。そうでもしなけりゃ、世の中良くなっていかないじゃないか。聖人ばかりが生きているわけじゃないんだから。みんな発展途上なんだから。「人として生きて行くには、この方向が良いみたいだから、僕はその方向に向かうけど、君たちはどうする?」というのが精一杯。そっちは間違ってるよとは、なかなか言えなかった。絶対間違ってると確信できることなら、殴ってでもそっちの方向には行かせないつもりでいたけれど、そんな場面に直面したときに、すぐに行動できる強さが僕にあるかどうか。これは自分自身でも分からない。
君たちは、どんどん成長していかなければならない。そうして、正しいと思えることを次の世代に伝えていかなければならない。未来が少しでも明るくなるように。勝手に未来がやってくるわけじゃない。みんなが未来をつくっていくんだ。自分という存在は、この世界にひとつであって、そのひとつひとつが未来をつくっていく。うぬぼれてもいい。俺が未来をつくるのだと。予期せぬ方向に流れることがあるかも知れない。だけど、僕は人間を信じている。まだまだ捨てたもんじゃない。
どうにもならないことに直面することもあるだろう。そんなときは、風に訊くんだ。風はきっと答えてくれる。そのかわり、真剣に訊かなければならない。答えが聞こえてくるまで、1年でも2年でも訊き続けなければならない。「風に訊け」の真の意味は、その言葉どおりなんだ。
またいつか会いましょう。大人になった君たちと、今よりも、もっと成長した僕と。
冬休み特別号
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中学生・高校生のあなたへ
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