お前がやれ!
大学の少林寺拳法部にいたとき、ある日の何時だったかに集まることになっていた。
ゴミ拾いをするんだったかポスターを貼るんだったか、とにかくろくでもないことをやる予定になっていた。
誰がやってもいいようなことで、行っても行かなくても大差ないようなことに思えた。
面倒くさいし、僕は行かなかった。
だけど、そう思うヤツが多すぎたので、当日集合したのは2〜3人だった。
その事実を知ったとき、マズったと思ったけど、後の祭り。
優しくて思いやりのある副将が、後日の練習後の部員全体に連絡する時間に言った。
「正直者がバカみるようなクラブにしとうないけんのう。」
これはこたえた。
あの副将にあんなことを言わせてしまった。
あんな悲しそうな目をさせてしまった。
その後のコンパのとき、副将に酒を注ぎながら謝った。
副将に謝ったからといってどうにかなるわけではないけれど、そのままにしておくことができなかった。
あのとき面倒がらずに行ってれば良かったんだ。
たいしたことをするわけじゃなかったんだから。
行かなかった同期のヤツらも、機会をみて副将に謝っていた。
みんな思いは同じだったんだ。
損得勘定じゃない。
副将に悲しい思い、つらい思いをさせた原因をつくった自分たちが許せなかったんだ。
自分がやりたくないことは、誰もがやりたくないことだ。
でも、誰かがそれをやらなければいけないときに、自分以外の誰かがやってくれたらラッキーと思ってちゃダメだ。
彼はそれをするのが好きだからとか、彼女がそうするのは趣味だからってことは、まず無い。
できればやりたくないけれど、仕方がないからやっているにすぎない。
誰だって、楽をしたいんだ。
いつまで甘えているつもりなんだ。
親に甘え、友人に甘え、他人に甘え、学校に甘え、社会に甘えて、どこまで逃げるつもりなんだ。
逃げて逃げて逃げ続けることは、向かっていくことより大変なことなんだって分かってるかい。
自覚があるのなら、自分がしろ。
阪神大震災が起こったとき、知人が仕事を休んで駆けつけた。
親戚がいたとか友人がいたとかじゃない。
困っている人がたくさんいるのは間違いないんだから、どんな小さなことであったとしても、自分にできることがあるはずだという思いからの行動だ。
彼の行動(いや、むしろ衝動か。)は、何もできない自分を認めるのがイヤで、社会の役に立っているんだという自覚(錯覚?)を得て少しでも安心できるように偽善者ぶってするような、単なるボランティアじゃない。
困っている人を助けるのはあたりまえじゃないか、という単純な理由からだ。
そんなことは分かっていてもできるもんじゃない。
だけど、できるヤツもたくさんいる。
やろうとしてもできない自分がいる。
決して認めたくない自分の弱さが見える。
そんなときだよ。
強くなれるのは。
自分の弱さを自覚して、ひとつひとつ弱さを克服して行くんだ。
本当の強さとは、誰かと比べないと分からないような相対的なもんじゃない。
基準は自分自身だ。
占い師が一部の人にもてはやされるのは、何かいやなことが起こったときに、その原因を星や前世のせいにしてくれるからだ。
いやなことの起こる原因のほとんどは、その本人自身の言動によるところが大きいに決まっている。
だけど自分に原因があることを確認したくないから、占い師のお世話になって、自分をごまかしているだけだ。
自分自身に原因がある、自分に責任があることを認めることは、ものすごくつらい。
でも、そこからだ。
自分の信頼できる自分をつくっていくのは。
正しいと思うこと、誰かがやらねばならないこと、そういうことが気負うことなくできるような、強くて信頼できる自分になるよう、もっともっと鍛えなくちゃいけないんだよ。ウン!