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アジのタタキ 6号

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自由であれ!
 
 自由という言葉が、いつから使われるようになったのか、僕は知らない。

 だいたい、liberty(リバティ)もfreedom(フリーダム)も自由と訳してるんだから、日本には自由という概念がなかったんだろう。

 それがいつの間にか言葉が一人歩きするようになって、みんなが勝手な解釈をするようになってしまった。
 中でも、思いのままに行動することが自由だなんて、そんなことあるわけないじゃないか。
 
 世界中の人々が自由を求めてきたんだけど、自由にはいくつかの段階があって、自由という言葉の意味は、時代や社会によって違っている。

 でも、どれだけ自由であるかということの目安としては、選択肢の多さが考えられる。

 例えば、レストランで食事をするときに、メニューが豊富であれば、多くの選択肢の中から自由に選ぶことができる。
 選択肢は多ければ多いほど良い。
 メニューという制限はあるけれど、その中での自由がある。

 だけど、自分の食べたい物がそのメニューになかったら、自由であると感じない。
 選択肢をもっと多くしなければならないわけだから、他のレストランに行くとか、どこにもないのなら自分で料理をするとか、自由でいたいのなら行動しなければならない。

 でもそれにしたって、材料が今手に入らないとか、お金が足りないとか、制限は必ずあるんだ。
 
 僕らは、野生動物の自由を得ようとしてるんじゃない。
 無人島に行って一人で生活をするわけじゃない。
 人間社会の中における自由を求めているんだ。

 つまり、自由だからということで、何をしても良いということにはならない。

 自分が自由でいたかったら、他人の自由も尊重しなければならない。
 自由な行動というものは、他人の自由を侵害したりしない。

 他人に迷惑をかけることは、人間社会における自由じゃないんだ。
 だから、自由には必ず制限がある。
 制限のない自由なんてないんだ。
 
 津高に制服はない。
 服装は自由だから、みんな思い思いの格好で登校してくる。
 だけど、そこには制限がある。
 高校生らしくだとか何とか。
 もっと言えば、津高生らしい服装という制限が。

 その制限の中での服装の自由なんだ。
 津高生らしいということが分からなければ、考えろ。
 出した答えが正しいかどうかは、いろんな人に確認しなければならない。
 自分勝手な解釈は許されない。

 津高生らしい服装というものは漠然としていて、境界は曖昧だけど、確かに存在する。
 それは時代によって変化して行くところもあるけど、津高生らしいからしくないかは、君たちが決めるものではないんだ。
 自分で津高生らしいと思っていても、まわりがそう見なければ、それは津高生らしくないんだ。

 自由は何らかの制限の中にあるけれど、制限事項は少なければ少ないほど自由でいられる。
 だけど困ったことに、制限を自分できちんと認識して、その中で考えて行動するような訓練をしてきていないから、レストランではセットメニューを選んだり、旅に出るのにパックツアーに申し込んだりする。

 自分でコース料理のメニューを考えたり、旅行計画を立てたりすることは、非常に面倒だ。
 だからと言って、用意されたモノに飛びつくのは、自分で選択肢を少なくしてることになる。
 選択肢が多いというのが自由のはずなのに、自分で自分を不自由にするなんて・・・。

 でも、まぁ、たいていの人は、それを不自由だとは思わずに満足してるようだから、他人がとやかく言うことでもないんだろう。
 
 制限が少なければ、行動できる範囲が広がる。
 自由であるためには、自分で考えて行動しなければならない。
 自由であるということは、楽をすることじゃない。
 しかも、自由に行動するということは、その行動に自分で責任をとらなければならない。
 
 宿題のない休日にゴロゴロすることが自由だって?
 一体全体どんな制限があると言うんだ?
 その程度の自由で満足するのなら、宿題があって不自由な方が充実してるんじゃないのか?

 とにかく、本当に自由でいたいのなら、常に考えて行動すればいいんだよ。ウン!
 
 

5号 好奇心を持て!  ◆ ◇ ◆  7号 勉強しろ!
 
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