自由であれ!
自由という言葉が、いつから使われるようになったのか、僕は知らない。
だいたい、liberty(リバティ)もfreedom(フリーダム)も自由と訳してるんだから、日本には自由という概念がなかったんだろう。
それがいつの間にか言葉が一人歩きするようになって、みんなが勝手な解釈をするようになってしまった。
中でも、思いのままに行動することが自由だなんて、そんなことあるわけないじゃないか。
世界中の人々が自由を求めてきたんだけど、自由にはいくつかの段階があって、自由という言葉の意味は、時代や社会によって違っている。
でも、どれだけ自由であるかということの目安としては、選択肢の多さが考えられる。
例えば、レストランで食事をするときに、メニューが豊富であれば、多くの選択肢の中から自由に選ぶことができる。
選択肢は多ければ多いほど良い。
メニューという制限はあるけれど、その中での自由がある。
だけど、自分の食べたい物がそのメニューになかったら、自由であると感じない。
選択肢をもっと多くしなければならないわけだから、他のレストランに行くとか、どこにもないのなら自分で料理をするとか、自由でいたいのなら行動しなければならない。
でもそれにしたって、材料が今手に入らないとか、お金が足りないとか、制限は必ずあるんだ。
僕らは、野生動物の自由を得ようとしてるんじゃない。
無人島に行って一人で生活をするわけじゃない。
人間社会の中における自由を求めているんだ。
つまり、自由だからということで、何をしても良いということにはならない。
自分が自由でいたかったら、他人の自由も尊重しなければならない。
自由な行動というものは、他人の自由を侵害したりしない。
他人に迷惑をかけることは、人間社会における自由じゃないんだ。
だから、自由には必ず制限がある。
制限のない自由なんてないんだ。
津高に制服はない。
服装は自由だから、みんな思い思いの格好で登校してくる。
だけど、そこには制限がある。
高校生らしくだとか何とか。
もっと言えば、津高生らしい服装という制限が。
その制限の中での服装の自由なんだ。
津高生らしいということが分からなければ、考えろ。
出した答えが正しいかどうかは、いろんな人に確認しなければならない。
自分勝手な解釈は許されない。
津高生らしい服装というものは漠然としていて、境界は曖昧だけど、確かに存在する。
それは時代によって変化して行くところもあるけど、津高生らしいからしくないかは、君たちが決めるものではないんだ。
自分で津高生らしいと思っていても、まわりがそう見なければ、それは津高生らしくないんだ。
自由は何らかの制限の中にあるけれど、制限事項は少なければ少ないほど自由でいられる。
だけど困ったことに、制限を自分できちんと認識して、その中で考えて行動するような訓練をしてきていないから、レストランではセットメニューを選んだり、旅に出るのにパックツアーに申し込んだりする。
自分でコース料理のメニューを考えたり、旅行計画を立てたりすることは、非常に面倒だ。
だからと言って、用意されたモノに飛びつくのは、自分で選択肢を少なくしてることになる。
選択肢が多いというのが自由のはずなのに、自分で自分を不自由にするなんて・・・。
でも、まぁ、たいていの人は、それを不自由だとは思わずに満足してるようだから、他人がとやかく言うことでもないんだろう。
制限が少なければ、行動できる範囲が広がる。
自由であるためには、自分で考えて行動しなければならない。
自由であるということは、楽をすることじゃない。
しかも、自由に行動するということは、その行動に自分で責任をとらなければならない。
宿題のない休日にゴロゴロすることが自由だって?
一体全体どんな制限があると言うんだ?
その程度の自由で満足するのなら、宿題があって不自由な方が充実してるんじゃないのか?
とにかく、本当に自由でいたいのなら、常に考えて行動すればいいんだよ。ウン!
5号 好奇心を持て!
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7号 勉強しろ!
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