自我のめざめについて
「ひとは二度生まれる。一度は生存するために、二度目は生きるために。」というようなことを、ルソーは「エミール」の中で述べている。第二の誕生(自我のめざめ)だ。第二の誕生によって、ヒトは人間になり、大人になる。君達は、もうすでに第二の誕生日を迎えたのだろうか。
だれでも自我にめざめるときが、中学生前後の時期にあるという。自分はなぜ存在しているのか、自分の存在価値とは何なのか、などと考えてしまうようなときが。自分が生きていることにどれほどの意味があるのか。自分の存在が社会にどれほど役立っているのか。自分が存在しなくても何ら変わりはしないのではないか。自分を必要としてくれている人が何人いるのだろうか、等々。
僕は、中学生のとき、英語の塾(といえるかどうかわからないが、とりあえず塾のようなものだった。)に通っていた。通い始める最初の日に、面接(これまたよくわからないが)をされて、「なぜ教えてほしいのだ。親に言われたからか」などときかれ、そんなことを考えてもいなかった僕には、「そうです」としか答えようがなかった。そんな先生だったから、ある日、「自分の存在について考えたことがあるか」というような質問をされて、何のことかサッパリわからなかった。「だれでも、自分がなぜ生きているのかと考えるときがある」と言うから、「先生は考えたことがあるのか」と尋ねると、「ある」と答えたから、生意気な中学生の僕は、どんな答えが出たのかきいた。すると先生は、「答えは出なかった」と言ったので、僕は、「そんな、考えても答えのでやんようなことは、考えてもしょうがないから、僕は考えへん」と言った。先生は、「答えが出なくても考えることは必要だ」というようなことを言ってたようだが、「そんなしょうもないこと」と思ってしまった僕には、後のことは耳に入ってこなかった。
僕がいつ自我にめざめたかというと、実は、記憶がない。ただ、中学2年のとき、自分自身について次のように考えたことはある。「こうして鉛筆をもって字を書いたりするのも、結局、脳が命令を出しているからであって、無意識にした行動であっても、それは、必ず脳からの命令があるわけだ。ということは、僕自身は、自分の脳に支配されているということになるんじゃないのか」と。このことが気になってしょうがなかったので、友人に話すと、「あほやなあ、脳自体が自分やないか」と言われて、それに対して何も言えず、話はすぐに終わった。今思えば、あのときの僕は、自分自身が体と脳(または精神?)に分離しているような感覚に襲われていたのであって、「お前の脳が、お前自身だ」と言われても、それじゃ体はどうなのか、ということが疑間だったわけだが、それをうまく表現できなかったので、友人との話が終わってしまったのだろう。
また、中学3年のとき、大人に混じって、あるお寺へ座禅を組みにいったことがある。2泊3日の合宿のようなものだったけれど、座禅というものに興味があったので、友人2人ほどと参加させてもらった。もちろん、座禅を組んで何かがわかったわけでもないし、自我を消滅させたわけでもない。ただ、早稲田大学の先生(?)の講演があって、その中で、「自分とは何ぞや」というようなことについての話があった。「例えば、指を切り落としてみたとき、自分の存在は、その指にあるのか。そうではない。では、腕を切り落とせばどうか。さらに、自分ではないと思われるものを、次々に切り離していったらどうか。そうして、最後に残るものが自分自身のはずだが、実は、最後には何も残らない。すべてのものの本質(だったかな?)は、"無"なのだ。」と結論づけられてしまった。そのときから、"無"というのは何だろうかと考えているのだが、未だにわからない。
さて、こんなことを考えてた僕は、もう自我にめざめているのだろうか。