自由について(T)−自由と規則−
「自由とは何ぞや」と、だれもが何回も自分自身に問いかけているに違いない。
自由ということは、自分の思い通りに、何をしても良いということじゃないか、と最初は考えて、何かをしようとする。すると、規則にぶつかって、思い通りにできることがほとんど無いように感じる。そこで、自分は自由じゃないと叫ぶことになる。
人は社会を形成して、その社会の中でお互いが生きていけるように、規則(=法)を作る。つまり、自分自身以外の人と関わりあっている社会の中で生きていく以上、そこには規則が当然あると考えられる。そうなると、自分の行動というものは制限を受けることになって、その社会の規則の範囲内で可能な行動が、その社会における自由な行動のすべてとなる。ということは、それぞれの社会によって規則が異なるから、自分が所属する社会によって自由度も異なることになる。
「行動が制限されるのは自由じゃない。規則があるからだめなんだ。オレは規則を越える。」というのが、西部劇によく出てくるアウトロー(outlaw law:法律)だ。無法者と訳すが、自ら法を無視して法を破る、つまり、その社会における罪を犯すわけだから、法によって守ってやる必要もなく、西部劇の世界では、銃で撃たれても文句を言える立場には無いわけだ。アウトローにとって規則はない。そんな彼らは、自由だろうか。彼らは、規則を無視するわけだから、その人間社会に所属していないことになる。つまり、野生動物が人間社会の規則を守らずに生きているようなものだ。野生動物の自由が欲しければ、無人島かどこかで、生きていけばいい。人間社会の中で、アウトローとして生きていきたいというのは、「自由」ではなくて、単なる「わがまま」だ。しかも、結果的には、みんなが守ってくれていることに気づきもしないほどの「甘えん坊」だ。人間社会の中で自由に生きるということと、人に甘えてわがままに生きるということは、全然違うことなのだ。
規則によって行動が制限されるわけだから、規則というものは、少ない方が良いに決まっている。規則が少ないほど、行動の選択肢が増えるわけだから、自由度は大きくなるといえる。けれど困ったことに、社会の中で自分の行動を決定するような経験を積んでいないから、自由度が大きくなればなるほど、不適切な行動(本人は不適切だと思っていない)をしたり、逆に動けなくなってしまうような人がたくさんいる。例えば、レストランで食事をするとき、自分自身が何を食べたいのかすら分からないから、人と同じものにしたり、店の方で用意したセットメニューを注文したりする。
また、業者が計画した旅行のパックツアーに参加することなど、予算等を考慮して妥協したんだと言うだろうが、果たしてそうなのか。パックツアーでなかったら、一体どのような旅行を計画したと言うんだろうか。
結局、自分で何もかも決定するのは大変だから、楽をして、それなりの満足を得るということは、自ら選択肢を少なくしていることに気づいていない。選択肢を少なくするということは、自由度を小さくしているわけだから、自分で自分を不自由な状態にしているわけだ。自由に生きたいと言いながら、たいていの人は、不自由な状態に満足している。自分で考えて行動する必要がなくなるから、楽だし、わずかばかりの選択肢を自由だと思って、満足できないときに愚痴をこぼしていれば、それで済むわけだ。しかし、彼らは充分幸せなのだから、他人がとやかく言うべきものでもないだろう。
たしか数学者の広中平祐が、京都大学に入学したときだったと思うのだが、教授に、「君たちは自由だ。だから、自分で責任をとりなさい」と言われて、感動したという話を聞いたことがある。「自由」には「責任」がついてまわるということを彼は理解できたわけだ。僕が大学生の時にこんなことを言われても、残念ながら、さつぱり分からなかっただろうなぁ。