経験から学ぶことについて
この夏体みに、子供たちの花火大会の監督者として立ち合うという経験をした。手に持ってはいけないと注意書きのある十連発の花火を持ってしたいという女の子に、花火が後ろに噴き出すことがあるから、花火の真後ろに絶対自分の体をもってこないように指示して、彼女の右手の花火に火を点けてやった。一発目が勢いよく飛び出して、二発目が飛び出すという時に、ある男の子が、その花火の前を、彼女の左手側から横切ろうとした。僕からみて、彼女の向こうから彼がやってきたわけだ。僕は、驚いた。「危ない!」「危ない!」と、2〜3回大声を出したように記憶している。実際の時間は、短かったのだろうが、その間に僕が考えたことは、「彼女が持っている花火を何とかしなければならない」ということと「彼を止めなければならない」ということだった。花火を何とかするためには、彼女から取り上げれば良い。だけど、その時に、噴き出し口が、彼女に向いたり、または、花火の真後ろに彼女の顔がきたら万一の時は大変なことになる。彼を止めるためには、僕が、花火の前を横切つて行くか、彼を蹴り飛ばせばいい。だけど、横切るには時間がかかり過ぎるし、蹴り飛ばせば、彼は2mほど下の川に落ちてしまうだろう。そこまで考えたのに、どうすればよいか分からず、僕の体は動かなかった。彼の顔が、花火の噴き出し口の20cmくらい先にあった。
とっさに何かの行動をしなければならない時に、体が動かなかった経験が以前にもある。一昨年だったか、外国の郊外の動物園で、帰国予定の日に、息子が僕の腰くらいの高さの台に座ろうとしてた。と、彼はバランスを崩して、後ろにひっくり返っていった。手を出しても届かない距離ではあったけれど、僕は何もせず、自分の子供がひっくり返っていくのをずーっと見ていた。すぐに彼は起きあがってきたけれど、コンクリートの角に頭をぶつけて、血を流していた。動物園の人が、市内まで車で送ってくれて、病院に行くことができた。病院では休日にもかかわらずレントゲンも撮ってくれて、幸い幾針か縫うだけで事なきを得た。その時間帯では、バスもなく、タクシー乗り場は人であふれていたので、息子がけがをして、動物園の人に送ってもらわなければ、予定通りの飛行機で帰国できなかったかもしれないのだけれど、「人生万事塞翁が馬さ」などと言っていられない。あの時、少しも動けなかった自分がいやだった。
話を元に戻そう。花火の前の彼はどうなったか。彼は、無傷で済んだ。彼女も無事だった。もちろん僕も何ともなかった。どういうわけか十連発花火の二発目が出なかったのだ。彼が花火の前を通り過ぎた後で、僕は彼女から花火をひったくり、水の中に投げ捨てた。花火大会は、無事終了した。
考える間もなく僕が行動しなければ、大変なことになったかもしれない事態に、これで2度遭遇したことになる。3度目はもうないと肝に銘じている。今までの2回は、神様が守ってくれたんだというのなら、それを信じてもいい。すぐに動けないようではだめだと神様が忠告してくれたというのなら、それも素直に受け入れよう。どうやら僕は、とっさの時に、考える間もなく適切な行動がとれるようになっておかなければならないようだ。
アメリカンフットボールの一流のクォーターバックは、実際の試合の前に、もうすでに、その相手チームとの試合を終えているという。イメージトレーニングだ。そのイメージの中では、自分がボールを持って何歩下がると、敵のだれそれが自分の何メートルまで近づいているから、自分はどこを見て、どんなパスをだせば良いかが分かる、というようなものだ。現実の試合においては、すでにイメージしたことが起こるわけだから、あわてることなく、対処できることになる。
その時の匂いまでもイメージできたなら、それは十分、実体験になり得るのだ。