理系頭について
確かに、理学部は理系で、文学部は文系だけれど、僕の考えている「理系頭」には、得意教科や大学の学部は関係ない。理系頭の持ち主とは、「世の中というものは、白か黒にはっきり分かれていて、白か黒に分けられない人は、頭が良くないのだろう」と考えている人のことだ。この意味がさっぱり分からない人は、僕の分類によると、文系頭ということになる。ほんの少数なのだが、「そのとおりさ。あたりまえじゃないか」と、すぐに返事をする人がいる。その人達が、理系頭の持ち主だ。
灰色を認めず、白か黒に分別するわけだから、それなりの理由が必ず必要になってくる。そこで、自分自身を安心させるため、だれも賛成しないような自分勝手な論理であっても、そこをよりどころにして、白か黒かに決定することになる。一般常識がこうであるとか、人は普通そんな行動をするものではないとかいうようなことは、理系頭にとって、何ら関係がない。理系頭の決定した白黒を覆すためには、彼の論理を見抜き、一般には理解されなくて彼だけが納得できる論理でかまわないから、それを武器に切り込んでいかなければならない。そうして、彼の論理の矛盾点を彼の論理によって引き出した後で、彼が安心できる別の論理を与えてやらなければならない。
小学校の頃、同級生が、何かクラスのみんなが困るような行動をした。学級会が開かれて、そのことについて話し合うことになった。当然、小学生だから、だれかが「クラスのみんなが困ってもいいと言うんですか」と質問する。大抵の場合「そんなことは考えていません」と答えて、「それじゃ、そんなことをするのは・・・」となって「ごめんなさい」となるわけだ。だけど、彼の場合、その質問に対して「そうです」と即答した。彼が、わがままなだけだが、学級会は、それ以上進展しなかった。後で、彼になぜそんなことを言ったのか訊くと、そう答えるしかなかったということだった。クラスのみんなが困ったとしても、自分はその行動をやめることができない。だから、わがままだということがわかっていても、あの時は「そうです」と答えるしかなかったというようなことを言いたかったんだと思う。彼だけが納得できるわがままな論理なのだけれど、その時、僕は、彼が非常に頭が良いということに気づいた。(子供なのだから、多少のわがままは許しましよう。)
彼の影響かどうか、僕は、典型的な理系頭だった。理系頭の僕は、灰色を認めなかったから、どんなことに対しても、必ず自分なりの決着をつけた。「まあまあ」で済ませることができなかったから、人から見れば、なぜそんなことにいつまでもこだわっているのかと不思議がられたことだろう。だけど、白か黒に分別できないということが許せなかったのだから、それは仕方のないことだった。だけど、結婚をして、僕は少しずつ変わってきた。
家内が理系頭ではなかったから、結婚当初、彼女の考え方が理解できず、同じ条件から考え始めてどうしてこんなにも結論が違ってくるのか不思議でしようがなかった。だけど、彼女の考え方を理解しようとしているうちに、世の中は白と黒だけどころか、ほとんどが灰色であるということに気づいた。彼女と一緒になっていなければ、一生気づかなかったか、気づくまでに多くの時間が必要になっただろう。このことをある美術の先生に話したら、「白と黒というのは両端で、白と黒の絵の具を少しでも混ぜ合わせたら、それは灰色になるじゃないか」と言われた。まったく、その通りだ。
結婚以前の理系頭の僕は、かなりつき合いにくい人間だったに違いない。それなのに、そんな僕の友人でいてくれた人たちがいた。また会うことがあったら、あの頃の僕につき合ってくれたこと対して「ありがとう」を言って、だいぶん成長した僕を見てもらおう。
13号 経験から学ぶことについて
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15号 分類について
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