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風に訊け 15号

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分類について
 
 だれかが何かをしたとき、「あの人が、あんな人だとは思わなかった」と、侮蔑の感情を含んで言う人がいる。これは、「あの人」の言動が、「あの人」のイメージに合わなかったことによる。
 
 なぜ、イメージをつくりあげるのか。もし、自分のまわりの人が、「捕らえどころのない人」ばかりだったら、彼らの言動の予測ができず、次の瞬間何が起こるかまったく分からなくなってしまう。そんな状態では、安心することができず、常に緊張していなくてはならない。そこで、人を「やさしい人」とか「几帳面な人」とかの自分のイメージに応じていくつかのグループに分類しておけば、それなりの言動の予測ができるから、緊張を強いられることがなくなるわけだ。
 
 この分類のときに気を付けておかなければならないことがある。分類するということは、物事を単純化することだから、グループ数が少ないほど理解しやすい。けれども、すべてがきっちりと分類できることばかりではなく、どのグループに分類すればよいのか分からないことがある。どうしても、「あいまいさ」が残ってしまうわけだが、多少の「あいまいさ」には目をつむって、どれかのグループに入れることになる。すると、実は「あいまいさ」こそが、その特徴であったかも知れないのに、分類した段階で、そんな「あいまいさ」を忘れてしまい、そのグループの特徴だけが記憶されることになるわけだ。
 
 もう一つ気を付けなければならないことがある。それは、分類の仕方が2種類あるということだ。
 
パターン1:「Aである」と「Aではない」に分類する。
パターン2:「Aである」と「Bである」に分類する。
 
 パターン1は、すべてのものを分類できるけれど、パターン2は、AでもBでもないものを入れるグループがない。それなのに、「Aではない」ものがすべて「Bである」ように勘違いして、何も気がついていないことがある。例えば、ジェームズ・レッドフィールドの「聖なる予言」(精神世界の入門書になりうる(?)物語としてベストセラーになっているらしい)の中では、人を「脅迫者」、「尋問者」、「傍観者」、「被害者」の4つの型に分類している。さらに、人は必ずこの4つの型のどれかにあてはまるとしている。なるほど、よく考えられていると思うけれど、果たして人を4つの型に分類できるものかどうか。これは、明らかにパターン2の分類であって、何となくどれかにあてはまりそうな気にさせ、パターン1のように思わせるところが、上手い。もちろん、5つ目に「その他の者」というのがあれば、完全にパターン1になって、すべての人を分類できる。
 
 人を自分のイメージで分類したとき、例えば、「やさしい人」のグループにだれかを入れたとき、「やさしい人」の言動の特徴を自分なりに定めてしまっているから、「やさしい人」に分類した人は、すべて、その特徴通りの行動をすると思ってしまう。「やさしい人」に分類したにもかかわらず、その人の言動が「やさしくない人」のようなものだったとき、分類をし直せばよいのだが、大抵はそうならずに、「あんな人だとは思わなかった」となる。自分で「あいまいさ」を無視して分類しておいて、そのグループの特徴からはずれると、自分の分類の仕方が悪かったと思わずに、その人が悪いことにしてしまう。都合良すぎやしませんか?
 
 予想と全く違う言動を人がしたとき、「あの人が、あんな人だとは思わなかった」とは思いたくない。自分がその人をしっかり見ていなかったから、そういう結果になるのであって、自分の未熟さを反省したい。だから、だれが、どんなことをしたとしても、その人にはそういう面もあったのかと、素直に受け入れたい。
 
 

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