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風に訊け 17号

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愛について
 
 人類が存在している限り、だれかが考え続けていくテーマだと思う。ギリシャ思想の「エロス」、キリスト教の「アガベー」、仏教の「慈悲」、儒教の「仁」等は、すべて「愛」なのだろうが、まったくもって分からない。ただ、今、漠然と「愛」というものについて考えたとき、シェル・シルヴァスタインの絵本にある「おおきな木」のように、「愛とは与えるものである」という気がする。
 
 「与える」ことによって、自分が損をすると思うようでは、まだまだなのだろう。自分を犠牲にして「与える」のではなくて、ただ「与える」。そこに、勘違いしたポランティア活動のような喜びを見い出すのではなくて、自然体で「与える」。呼吸をしていることに気づいていないように、「今、愛を与える」などと考えての行為ではなくて。
 
 子に対する親の愛というものは、自分が親にならないことには理解できなかった。言葉で理解してはいたが、実際は、かなり違っていた。だから、このことについて、今、どれだけ説明しても、「そんなものかなぁ」という程度になってしまう。だけど、異性に対する思いというものについては、もう少し身近に感じるだろうから、こちらからアプローチしてみよう。
 
 「こういうことをすれば、彼女を愛しているということが分かってもらえるだろう」と考えての行為は、真の愛からの行為ではないように思う。常に計算をしているわけだ。その計算の裏には、「だから、彼女もこれくらいのことをしてくれて当然だ」との期待がある。それなのに、彼女が自分の思い通りに「与えて」くれないと、「こんなに愛しているのに、彼女は分かってくれない」となって、愛情どころか、憎しみが頭をもたげてくる。自分を犠牲にして、見返りを期待した行動をして、「与えてもらう」ことにしか喜びを感じないから、そうなってしまうのだろう。もっと、自然体で、「与える」ことは損ではなく、自分自身をもっともっと豊かにするものだと思えないものだろうか。
 
 ろくに人を愛したこともない僕が、何を言っても始まらないのだが、過去に一度、妙な体験をしたことがある。僕は、理系頭だったから、すべての行動には計算があった。こういう行為をすれば、彼女が喜ぶだろう、恋人同士は、こんな語らいをするのだろうと。だけど、ひとりよがりの考えだったから、空回りすることも多かった。僕自身「与えてもらう」ことには喜びを感じたが、「与える」ことは面倒くさく、苦痛だった。「与えてもらう」だけの世界で、生きて行きたいと思っていたわけだ。それは、「甘え」に他ならないわけだが・・・。そんな僕が結婚をして、何年かたったあるとき、家内と二人でアイスクリームを食べていた。おいしいアイスクリームを彼女は先にたいらげてしまい、僕の方を見て、「ちょうだい」と言った。そのとき、僕は、食べかけのアイスクリームを、スッと彼女の前に差し出した。僕はアイスクリームが嫌いなわけでもないし、実際、僕も食べたかったわけだから、彼女が「ちょうだい」と言ったところで、普通なら、僕は、「いや」と答えたはずだし、それが分かっているから、彼女も「ちょうだい」等と言わなかったはずだ。それなのに、彼女は「ちょうだい」と言い、僕はアイスクリームを差し出した。この自分の行為は、自分で理解できなかった。そこには、彼女が喜ぶだろう、今これをやれば、いつか何かくれるかも知れない等という計算はなかった。それこそ自然体で、欲しいと言うからあげたというだけのことだった。おぼろげながら、これが「与える」ということなのかなと思った。いつもいつも、こんなふうに行動できたら良いのにと思っていても、全然そうはいかない。あのとき、どうしてそんな行動がとれたのか、未だに分からない。
 
 「与え」ていたら幸せになれる保障もないけれど、「与え」続けることが大切だと思う。結論を先延ばしにする新興宗教の教えのようだが、それでも今は、「愛とは与えるもの」だと思っている。
 
 

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