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風に訊け 19号

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稽古について
 
 何事も上達しないとおもしろくない。練習をして、昨日までの自分とは違った自分を発見するとき、さっきまでできなかったことが、できるようになったとき、非常にうれしく思う。たとえスランプに陥ったとしても、それを乗り越えると、また、大きく進歩する。自分は、上手になったと実感する。そうなると、また練習に意欲がわいてきて、事態はどんどん好転していく。だけど、これは、レベルが低い状態のときのことなのだ。
 
 村上 春樹だったかがヴァイオリンを趣味としていたが、ちっともうまくならず、どんどん下手になっていくので、やめたというのを小説の後書きだったかで読んだことがある。また、ある書家が、書けば書くほど下手になっていくので、いやになるというのも何かの記事で読んだことがある。信じられないかも知れないが、練習をすればするほど下手になるということが、どうやら真実らしい。これは、客観的に見れば、彼らは十分上達しているけれど、やってる本人たちは、上達するどころか、下手になったような気がするということなのだ。どうしてかと言うと、練習することによって、技術は上達していくのだが、そうなると、それを感じ取る感覚もどんどん発達していくことになって、この感覚の方が技術の先を行くようになる。すると、自分の理想とする状態がどんどん高くなっていって、以前は感じなかった下手さに気づくようになるから、いつまでたっても、理想とする状態に自分をもっていけないわけだ。耳や目、または何かを感じ取る感覚というものは、身体を動かす能力より、はるかに速く発達する。どんどん下手になっていくと感じることが、上達していることの証なのだ。
 
 何かに関して上達しようと思ったら練習をすることになるわけだが、練習をすれば上達するか、というとそうでもない。僕の武術の師匠である 黒田 鉄山(くろだ てつざん)先生は、稽古(古(いにしえ)を稽(かんが)える)について、「ダメな稽古をいくらやってもだめだ。下手な稽古をやりなさい。下手な稽古は、そのうち上手になるから」とおっしゃる。これは、非常に厳しいことだ。1cmも手の位置がずれたことをいくら反復練習したとしても、「ダメなものはダメ」ということになる。とにかく、正しい「下手」から始めないことにはどうにもならないというわけだ。
 
 縁あって黒田先生と親しくさせていただいているが、先生の動きは見えない。見ていても記憶に残らないというべきなのかもしれないが、先生が手本を示されたところで、どうやればよいのか、さっぱりわからない。どんなにゆっくり動いてもらっても、動作が消えているのだ。そういうことが、ようやくわかってきた。最初のころ、先生がゆっくり動いているのに、弟子たちが、速すぎてついていけないと言うのを聞いて、あんなにゆっくり動いているのに、何が速いというのだろうと不思議に思っていた。素人の感覚というものは、そんなものなのだ。まったく見えていないのに、見えているような錯覚に陥っているのだ。人は、このように動くものだ、という予測が頭の中にあって、何も見えないから、その予測通りに動いているんだろうと、勝手に頭が納得しているだけのことなのだ。力では行けない世界、そんな世界があったのかと思う。単にそれが分かっただけで、自分の体はいっこうに動いてくれない。「体は、思うように動かないものだ、と気づいてからが稽古なのだ」と先生はおっしゃるが、これは、辛い。動かないものを動かせと言われても、どう動かせばよいのか、分からない。どこの筋肉をどう動かすなどと言葉で説明できるわけもなく、自分の内的感覚として理解できるようになるまで、稽古を続けるしかないわけだ。しかもその稽古は、「下手な稽古」でなくてはならない。こんなことは、ひょっとすると、一生体得できないかもしれないほどの内容だ。どこまで行けるか分からないけれど、僕は、続けていこうと思っている。どこまでも追求できる奥の深さがあって、しかも、それを体現することのできる人がいる。追いかけなくては、もったいないじゃないか。
 
 

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