自由について(U)−自由と社会−
津高には、制服が無い。服装は、「自由」なわけだ。だから、みんな、私服で登校する。学生服が好きならば、学生服を着ていても構わない。生徒手帳には、いろいろと書いてあるが、まぁ「高校生らしい服装をしなさい」というくらいのものだ。ただ、大人が、「高校生らしい服装」とは「こうあるべきだ」という限定したものを想定しているのに対し、君たちは、「高校生の服装だとは、およそ考えられないもの」つまり「絶対に高校生らしくない服装」以外はすべて、「高校生らしい服装」としても良いんじゃないかと考えているところは違っている。結局、「高校生らしい服装」かそうで無いかのボーダー(境界)は、明らかではないから、主観によるか多数決によることになる。
服装は「自由」なのだから、何を着て登校しても良いはずだ。それなのに、暑いからと言って水着やアロハ(生徒手帳には、「標準的ではない」とある。)で登校する者はいないし、ジャージで授業を受けている姿も、まず見かけない。もちろん、だれもドレスを着て来ないし、羽織袴で来るのもいない。なぜかと問えば、「カッコ悪いから」とか「常識じゃないか」とかいう答えが返って来るだろう。君たちの服装の「自由」は、君たちの基準によって「カッコ悪い」とか、君たちの「常識」によって、自然と規制されていることになる。
ある社会に属したとき、その社会の規則を守るのは当然として、その社会の規則に無いようなことは、何をしてもよいのか、というとそうでもない。規則が定められていなくても、その社会の「常識」というものが存在する。また、人と人が共に生きて行くにあたって、「道徳」というものが形成される。そこで、これらからはずれた行動をとることは、非常に「カッコ悪い」ことになる。「カッコ悪い」ことはしたくないから、行動は制限されることになる。自分が、何かしたいと思っても、その社会の「常識」からはずれていたら、その行動はとれない。もし、無理矢理そんなことをすれば、それは、自分勝手な「わがまま」になってしまう。「わがまま」であることは、非常に「カッコ悪い」ことなんだけど、それに気づいていないと、他人の迷惑を顧みない行動をしてしまう。それは、他人の「自由」を侵害していることになる。自分が「自由」でいたければ、他人の「自由」も尊重しなくてはいけない。ということは、自分が「自由」であるためには、自分の行動を自分で制限しなければならないということになる。社会の中での「自由」というものは、大人に守られている赤ん坊が、何をしてもよいということとは、全然違うものなのだ。
もっと大きな、国レベルの「自由」を考えてみよう。例えば、いろいろな束縛を受けているとき、人々は「自由」を求めて戦う。その束縛から逃れられれば、「自由」になれるわけだから、「自由」には、「束縛の無い状態」という明確な意味がある。しかし、その束縛が無くなったとき、「自由」の意味は変わってくる。束縛から逃れるために求める「自由」と、束縛の無い状態で求める「自由」は、違ったものになってしまう。人々は束縛から逃れたとき、再びその束縛を受けることがないよう「法」をつくる。すると、「法」によって「自由」が保障されるようになるわけだ。ということは、「法」を遵守(じゅんしゅ)するものが、「自由」でいられることになる。もちろん「自由」とは、好き勝手な行動ができるということではなく、「自由」を保障してくれている「法」の責任と義務を果たす者だけが、「自由」になれるということだ。また、「法」の責任と義務を果たしている限り、他人の「自由」を侵害することはないだろう。つまり、「自由」である人は、他人の「自由」を侵害しないのだ。
「自由」に対するイメージが変わったかな?好き勝手な行動をすることが「自由」ではなく、他人のこと、社会のことを考えながら、「常識」や「道徳」に沿った行動をし、「カッコ悪い」と思われることをしない、もう少し突っ込むと、「理性」に従って行動すること、それこそが「自由」なのだ。
19号 稽古について
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21号 超常現象について
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