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風に訊け 26号

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自由について(V)−自由と悟り−
 
 悟りを開いた人が、今までに何人いるのか分からないけれど、それらの人々の精神が不自由だったとは思えない。だから、「悟り」=「精神の真の自由」だと思っている。
 
 何かについて考えるとき、言語を使用する。僕たちは、日本語を使って考えているわけだが、他の言語を使って考えれば、日本語よりも早く答えの出ることがあるかも知れない。例えば、論理的な思考にはドイツ語が良いとか、恋を語るにはフランス語が良いとか。残念ながら、僕は日本語でしか思考できないから、他言語による思考がどのようなものか分からない。
 
 イーデス・ハンスンという外国人が、テレビに昔出ていた。彼女は、なまりのないきれいな日本語を話した。彼女の手記を何かの雑誌で読んだとき、その理由が書いてあった。彼女は、日本語で物事を考えていたのだ。ただ、むずかしいことを考えていると、いつの間にか英語で考えてしまうので、そのときは最後まで英語で考えて、後で、もう一度すべて日本語で考え直すとのことだった。他言語というのは、日本語を翻訳するだけだと思っていた僕には、他言語による思考が存在することに気がついていなかったのだ。思考の可能性が広がったわけだ。日本語での思考では行きづまってしまったとしても、英語なら、その先へ行けるかもしれないわけだ。もちろん、そう簡単なことではない。例えば、日本語の「いっそのこと・・・しよう」などという言い回しにぴったりくる英訳などないだろうし、その英文を読んだイギリス人が、はたして日本語の「いっそのこと」という微妙なニュアンスを感じ取れるかどうかは疑問だ。言語というものには、それまでの文化がつまっているわけだから、その文化を理解しなければ、言語の理解にはならないわけだ。
 
 言語による思考は、使用する言語によって違った結論を導くかも知れないけれど、悟った人々が、違う悟りにたどりついたわけではないような気がする。つまり、悟りというものは、言語を使って思考して行くのだけれど、思考して思考して思考しつくした後にさらに思考して、その言語による思考を越えたところにあるように思う。だから、悟りというものを言語によって説明することができない。それを、少しでも分かりやすくと言語にするから、低レベルの勝手な解釈がいっぱい生まれて混乱することになる。悟りとは遠い世界のことなんだ。
 
 お釈迦様の悟りには届かないけれど、精神を少しでも自由にさせたい。自分の精神を縛りつけているのは、自分自身に違いないのだから。自由にさせると、あれが欲しい、これが欲しい、あーしたい、こーしたいというのでは、ダメなんだ。それが満足されないと、不自由だと感じる。欲望が自分の精神を不自由にしているわけだ。好きなことを考え、好きなことをするのが、精神の真の自由なのかどうかを考える必要がある。精神を真に自由にしたとき、それを好きだと思うのかどうか、それが欲しいと思うのかどうか。理性で何もかも閉じこめようというのではない。それを欲しいと思わなければ、それが手に入らないということに対して、何ら不自由を感じることはないということなのだ。
 
 アレクサンドロス大王がギリシャを訪れたとき、尊敬するディオゲネスという哲学者の前でこう言った。「あなたの望みを何でもかなえてあげましょう。」樽の中に住み、杖を持ち、体にぼろ布をまとっただけのディオゲネスは、日向ばっこ中だった。「欲しいものは何もない。そう、お前さんで日陰になっているから、そこをどいてくれ。」護衛兵はいきり立ったが、大王は、その場を静かに立ち去った。大王を立ち去らせたディオゲネスは、何でも手に入れることのできる大王より、ずっと幸せで自由だったんじゃないだろうか。
 
 

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