生命の教育研究所----今を生きるあなたに伝えたいこと

Contents

HOME 代表プロフィール 中学生・高校生のあなたへ 教員の方へ(教員を目指す方へ) 講演記録 ブログ

風に訊け 7号

イメージ写真

偽善という善について
 
 この世の中には偽善者しかいないじゃないか・・・と人間に絶望するときにつかうほどの「偽善」という意味についてまで考えが及んでいないので、今回のテーマの「偽善」は、もっと軽い意味です。
 
 人は、他人にほめられたり、信頼されたり、感謝されたりすることに喜びを感じるように思う。何も感じないという人(他人の評価など気にせず、自分の信じる道を、ただひたすら歩み続けることはすばらしいことだとも思うが。)もいるだろうが、ほめられて悪い気はしないはずだ。
 
 もうすぐ5歳になる愚息は、家で服などたたんでいないのに、幼稚園で脱いだときにキチンとたたんだので、先生にほめられた。その話が伝わってきて、おばあちゃん(僕の母)は大喜び。彼を「えらいねぇ」とほめる。で、彼はご満悦なのだが、僕はわかっていながら(自分の子供の思考くらいは読める。)彼にきいた。「なんで、幼稚園で服をたたんだん?」彼は即座に答えた。「先生にほめてもらえるもん。」それを聞いていたおばあちゃんは、そんな打算的な行動だったのかと、少々がっかりしながらも、5歳の子供でもそこまで考えて行動するのかという驚き(自分の孫なので喜び?)を感じたようだ。
 
 僕にとっては、彼の行動はごく自然なことのように思える。他人にほめてもらう、彼の場合はその中でも先生にほめてもらうということが、彼にとっての喜びなのだから、そのために、その場その場でどのように行動すればよいかを考える能力さえあれば、思い通りにほめてもらって、いい気分になれるわけだ(幼稚園の先生がそこまで見抜いてほめているのかどうかはわからない)。そのうちに彼は、先生の見ているところでは、ゴミを拾ったりもするようになるんだろう。そんな彼の打算的な行動は、悪いことなのだろうか?
 
 少林寺拳法の修行をしていたころ、その教えの中に、「金メッキをしろ」というのがあった。「腹の中までは他人に見えないから、何を考えていてもいい。だけど、外面(そとづら)は金でゆけ。中身まで本物でなくていい、金メッキで十分だ。ただし、一生はがれない金メッキをしておけ」と。これを実行することは大変なことだ。「一生はがれない金メッキ」にするためには、メッキを非常に厚くしておかないと、すぐに地金(じがね)が出てしまう。言いかえると、「偽善の善でいい。だけど、一生ぼろを出すな」ということになる。「偽善」の「善」は本当の『善』ではないけれど、「善」は「悪」ではないのだから、とりあえず、やれそうな「善」からいこう、形から入っていこうというわけだ。そのうちに『善』ができるんじゃないかという期待をしながら。
 
 むずかしい判断基準はいらない。自分が行動するときに、その行動の善悪の判断に迷ったら、「悪」か「悪ではない」かで、行動すればいい。そうは言っても、たとえば、教室のゴミを拾うことができなかったりする。その行為に特殊な技術が必要なわけではなく、だれが判断しても「悪」ではないと結論付けられるのに。理由は簡単。その行動をする勇気が足りないんだ。「ああ、何ということだ、「偽善」の「善」をなす勇気(『善』をなすのに勇気は必要ないかもしれない。)すらないのか」などと嘆かなくてもいい。多分、それで普通なのです。僕が教室のゴミを拾えるのは、君達と立場が違うからで、僕に勇気があるからじゃない。
 
 勇気とか優しさは、待っていたらだれかが分けてくれるものでもないから、いろんなことに挑戦して、行動して、経験を積んで、自分を磨いていかなければ手に入らない。そして、いつか、「金メッキ」の輝きではなく、内部からの「金」の輝きを放つようにしたい。
 
 毎日の通勤途上の道路脇に、空き缶等がいっぱい捨てられているところがあって、特にきれい好きというわけでもないが、気になってしまう。今は無理でも、いつか必ずあの場所を掃除してやる!
 
 

6号 テストの出題について  ◆ ◇ ◆  8号 嘘について
 
トップへ戻る

 

リンク

Copyright(C)2018 生命の教育研究所 all rights reserved.