嘘(うそ)について
「うそつきは泥棒のはじまりだ」などと言われ、嘘をつくことは悪いこととして、だれもが嘘をつかないように育てられてきたんじゃないだろうか。だけど、世の中には(許せない)うそつきが嘘をつくし、うそつきじゃなくても嘘をつかなければならないようなときがあるように思う。
小学2年生の娘が3歳か4歳くらいの頃、彼女をお風呂に入れているときに、今日は何をして遊んでいたのか僕がきいた。すると、彼女は、「今日は、お母さんとお買い物にいったん」と答えた。ひとしきり話した後で、彼女が、「そやけど、このことはお母さんには内緒にしといてな。約束やに。」と言った。何か心にひっかかるものを感じたが、理由をきいても答えないし、僕に言えない物でも買ってもらったのかと思って、風呂からあがった。後で家内に尋ねると、今日は買い物に行かなかったとのこと。これでなぞが解けた。娘は嘘をついたのだ。だから、嘘がばれるのがこわくて、母親には内緒にしてくれなどと僕に約束させたわけだ。つまり、彼女は、嘘がいけないことだと知っていたのだ。このときは、いささかびっくりした。自分の子供時代を振り返ってみればわかるように、子供は嘘をつくものだ。だけど、僕には、彼女のような嘘をついた記憶がない(そういえば、落合恵子は子供の頃、お土産をもらったりすると、つまらなくても、いつもうれしそうにはしゃぎまわったということだ)。お風呂で僕がきいたから、彼女は、一所懸命考えたんだろう。とりたてて何も無かった一日だったけど、僕が満足するような答えを、嘘であってもしようと。もし、僕が約束を守って、家内に確かめなければ、まんまとだまされたことになる。だからといって、このとき、僕は彼女を叱らなかった。僕を喜ばすためについた嘘に対して、嘘はだめだと言えなかった。その判断が正しかったのかどうかは、今も良くわからないが、彼女は、人を悲しませないために嘘をついわけだ(何か答えないとしつこく僕がきくから、嘘でもいいから答えたのだろうと家内は言う)。
嘘は良くない。これは基本だろう。特に許せないのは、自分の身を守るための言い逃れの嘘(娘がこんな嘘をついたら容赦しない)をついて、他人を陥れたりすることだ。生きるか死ぬかの境目のときは、大嘘をついてでも生き延びることをするかもしれないが、そうでない限り、言い逃れの嘘などつきたくないと思っている。政治家や宗教家らが、明らかに嘘をついてると思われるときがある。それが世の中かもしれないが、それに対して怒りを感じることは、正常だと思う。
正直に生きることは、良いことだ。正直じゃない大人をみて、「あんな大人になんかなりたくない」と思って生きていけば、それで良いと思う。「正直者がばかをみることはない。もし、ばかをみたなら、それは本当の正直者じゃないからだ。」というのを何かで読んだことがある(これは、結論がずっと先に持ち越されていて、「幸福になれないのはお布施が足りないのです」という新興宗教のようにもとれるが)。その通りなのかもしれない。フォレスト・ガンプ(映画のタイトル。主人公の名前)が、ばかをみたようにも思えないし。だけど、正直者として生き抜くことは、そう簡単じゃない。正直者のふりはできるだろうけれど、自分自身にいつも正直でありつづけることは、この世の中では、苦痛を感じることになる。そうなると、その精神的苦痛に耐え得るだけの強さが必要になる。だから、耐えられる強さに応じて、生きていくために(自分にも他人にも)嘘をつくことが必要なのかもしれない。
娘が幼稚園に通っていた頃、「○○君ってかっこええんやに」と言ったので、「お父さんとどっちがかっこええ?」ときくと、「そんなん○○君に決まっとるやん。お父さんと比べもんにならんわ」と言われた。ああ、彼女は、嘘をついて人を悲しませないということを忘れてしまったのか(最初から知らなかった?)。暴力を否定するが、このときばかりは、○○君を殴りにいこうかと思った。