教科書の記述
教育実習は大学付属高校でした。2週間の間に2回の授業の指導案を書くのは大変でした。教科書を読み込んで、参考書を引っぱり出し、授業の流れを考え、板書計画を立て、発問が適切かどうかを吟味し、生徒が質問してくるかもしれないこと全てに対する解説をつくり、実験を行う場合には予備実験を繰り返し、どのような状態になったとしても、適切なデータがとれるように工夫をしました。1時間の授業のための準備が、何日にも及びました。
しっかりと板書計画も立て、これで、大丈夫だと思える指導案ができました。そうして、初めての授業です。物理学の内容を教えるのに、なんら問題のない図を板書していたのですが、授業の終わり近くになってきて、教室がザワザワしはじめました。私には、何が起こっているのか、見当もつきませんでした。そのうち、私では相手にならないと思ったのか、立ち上がって、教授に質問にいく生徒もでてきました。その中で、ある生徒が質問をしてくれました。「その図では、別の現象が生じませんか?」と。指導案を作成しているときには、思いもしないことでした。物理学を学んだ者にとっては、当たり前のことだったのですが、生徒は、今、物理学を学んでいるのです。そういう勘違いをしてもしょうがないと分かりました。しかし、その勘違いを正すためには、その時までに彼らが学んでいる物理学の知識では足りないのです。「そのことについては、これから習います」と言ったところで、チャイムが鳴って、私は救われました。
どうにも、腑に落ちません。間違った説明をしたわけではない、という自負がありました。一体全体、教科書では、どのように説明しているのだろうかと、教科書の図をみて、たまげました。なんと、ごまかしの図が描いてあったのです。指導案作成のときに、あれほど教科書を読んだのに、どうして気づかなかったのだろうかと、反省しました。理解の妨げになるくらいなら、図をごまかした方が良いのです。教科書は、そこまで配慮してあったのです。
2回目の授業は実験でした。その指導案で、準備物として「ばねばかり」と記入しました。教授に指導を仰ぐと、「ばねばかり集めてどうするんだ!」と一喝されました。わけが分からずキョトンとしていると、「教科書を見てこい!」と、また叱られました。この教授は、一体、何を言っているのだろうかと思いながら、教科書を見ると、なんと、そこには「ばねはかり」と書いてあったのです。
日本語においては「ばねばかり」であろうが「ばねはかり」であろうが、大差ありません。むしろ日常では「ばねばかり」と言っているようにも思います。ただ、その教科書が、「ばねはかり」と記述しているのですから、私が授業で「ばねばかり」と記述すると、生徒に余計な疑問を抱かせることになるかも知れません。その教科書を使って、授業をしているのなら、「ばねはかり」と記述して、「ばねばかり」とも言います、というような授業展開にするべきなのでしょう。とにかく、生徒を混乱させてはいけないのです。生徒にとって、いろいろな言い回しがあることなど、その時に全て知る必要もないのです。大切なことは、その授業で学ばなければならない内容です。ですから、教師は、その授業で学ばせなければならないことに、理解させなければならないことに集中して、枝葉を徹底して排除して、本質を理解させることに努めなければいけません。教師には、生徒をはるかに上回る知識があります。知っていることを、全て伝えたいと思う気持ちも分かります。でも、そうすることは、初めてのことを学ぶ生徒を混乱させているだけかもしれないのです。