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むてき 16号

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分かる
 
 私は、天気が良いと、バイクで走りに出たりします。1日で800kmを走ったこともありますが、さすがにそのような時は、前日から気合を入れないと朝の思い付きだけでは走れません。たいていはその日の気分で、100〜300kmくらいを走ります。
 
 目的を持って走っているわけではないので、ヘルメットの中で口をパクパクさせながら歌を歌っているか、考えるともなく何かを考えています。と、突然、こういうことだったのか!と「分かる」のです。
 
 小学校で「1+1=2」ということを学びます。数字というのは抽象的な概念ですから、非常に難しいことだろうと思いますが、皆、理解します。いきなり抽象的な事柄で、しかもその(数学の)ルールがすぐに理解できるとは、信じられないことです。では、なぜ、理解できるのでしょうか。それは、すでに知っていたからです。ここで、知っていた内容には、差があります。「1+1=2」であることを知っている場合と、りんご1個とりんご1個を集めるとりんご2個になるということを知っている場合です。新しいことを学んで、「分かる」というのは、後者の場合です。これは、「分かる」ということの内容が、すでに体験したことであって、理解するための部品が内部にあって、説明をされるとそれらが整理されて「分かる」ようになるのです。つまり、「分かる」とは「言語化できること」なのです。ですから、私たちは、本当に分かったのなら、説明できるはずですなどと、授業で言ったりするわけです。
 
 言語には限界があります。抽象的な概念を表す既存の言語がなければ、その概念を理解することは非常に困難なことになります。こういったことは、身体運動の世界では当たり前に使われています。「肩の力を抜け」ということなどは、その代表でしょう。肩のどの筋肉の力をどれほど抜くのか、分からないはずです。もし、力をすべて抜いてしまったら、腕を動かすことができません。結局これらは、言語で説明できません。感じとして分かるだけです。しかも、分かったと思ったことが正しいかどうかが、誰にも分からないのです。
 
 私は、高校の時に物理を学んで、内容を理解して、大学入試でも問題を解くことができて、教員採用試験にも合格したので、教師になって授業をして、何年間も物理を生徒に教えていました。もちろん内容が「分かって」いましたから、言語化できていて、授業が成立していたわけです。しかし、ある日の授業中、生徒に説明している正にその時、私はすべてが『分かった』のです。この『分かった』は、「腑に落ちた」という言葉で表せるものだと思います。あまりのうれしさに、その時、生徒に、「今、このことが私には、はっきり分かりました」というようなことを話しましたが、もちろん、生徒は何のことやら理解できません。それでも、私は話さずにはいられなかったのです。
 
 「分かる」ということにも、いくつかの段階があるようです。でも、とりあえず、自分の内部にあるものが整理されて言語化されたとき、「分かった」ということでよいと思います。もし、自分の内部にそのことに関する体験がなければ、いくら分かりやすく説明されたところで「分かる」ことはなく、説明をただ覚えることで精一杯でしょう。
 
 物理や数学は、浪人すると理解する受験生が増えます。高校時代と浪人中に2度学ぶということも理由のひとつでしょうが、理解できるだけの体験が増えるからだと、私は思っています。
 
 今、分からなくても、経験を積めば、分かるようになります。正しいことであるならば、意味無く覚えさせることも大切な教育だと思います。
 
 

15号 考える  ◆ ◇ ◆  17号 校則
 
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