仕事
人が社会を構成するようになったとき、役割を分担するようになりました。服を着ていられるのも、食事ができるのも、作る人、運搬する人、販売する人等、多くの人がいるからできることです。多くの人の世話になっているわけです。ですから、社会の一員であるならば、自分も何かをするべきでしょう。病気等で働くことができない場合は、無理をすることはありません。でも、そうでないのなら、自分だけが何もせずに、与えられることだけを望むというのは、あまりにも都合よすぎるでしょう。
子供は、こういうことが考えられません。子供は、すべて自分中心にしか考えられませんから、誰かが何かをしてくれることを期待し続けます。自分の状況がよくならないのは、まわりの誰かのせいであるとしか、考えられません。それが、成長するにしたがって、自分が何かをしなければならないことに気づくようになります。自分の存在を、誰かの役に立っていることで認識できるようになります。シルバー人材センター等で老人が働きたいというのは、お金が必要なこともあるでしょうが、それ以上に、誰かの役に立っていることを感じたいからだと思われます。それが生きがいになるのでしょう。
社会の中にある仕事は、どんな仕事であれ、誰かのためになっているはずです。(もっとも、詐欺集団まがいの活動が仕事とは思いたくはありませんが。)一般的には、仕事をするとお金がもらえます。では、お金をもらわない主婦(主夫)は仕事をしていないのか、ということになると、狭義ではそうかもしれませんが、社会の一員として必要なことをしています。広義では立派に仕事をしていることになるでしょう。つまり、私たちは社会という共同体の中で生きているのですから、社会の一員として、なにかの活動をすることは、当然のことです。ここで、やりがいのある仕事に就けた人は、幸せなのでしょう。こういう仕事をしたいと思って、その仕事に就けることは、案外少ないのかもしれません。本当にやりたい仕事でなくても、社会の一員として、仕事をしなくてはなりません。名前は知りませんが、ラジオのパーソナリティが、萩本欽一から言われたそうです。「やりたい仕事とやらなくてはならない仕事とは違う」と。
自分探しということが流行りました。自分がそこにあるのに、自分探しとは何事か。私には、若者に何か勘違いをさせているようにしか思えません。早く安定した収入を得て、社会の一員としてどのように社会に貢献していくかを考えさせなければならないはずなのに、本当にやりたいことが見つかるまでフリーターでいるということを正当化してしまいました。大体、職業欄に「フリーター」と記入させることを奇妙に感じます。やはり、「無職」と記入してもらいたい。ニートもそうですが、カタカナにして、あたかもそれが正しいことのように錯覚させています。(正規採用がないから、しかたなくそうなっている人々が多数いることも大きな社会問題です。)
その仕事が自分に向いているかどうかなんて、最初から分かる人は、まずいないでしょう。仕事に自分を合わすのです。その仕事をやってみないことには、それが好きか嫌いかもわかりません。とにかく社会の一員として行動すること。それが大切なことだと思っています。
若者が働かなくなったら、社会のシステムが成り立たなくなってしまいます。国の存在そのものが脅かされるようになってきたのです。若者に仕事をさせないと、大変なことになるのです。ほとんど当たり前だと思われていたことにも、こうやって理由を言わないといけない時代になったようです。