言語
人は考えるとき、言語という道具を使います。そのとき使う言語は、母語(母国語)です。母語がなければ、考えることができません。人類は多様な言語を持っています。それぞれの言語には歴史があって、微妙なニュアンスを正確に翻訳することができません。ひょっとすると、物事を考えるとき、日本語で考える場合と英語で考える場合では、異なる結論になるかもしれません。まあ、結論が異なることはないにせよ、その結論に至る道筋は異なるでしょう。会議は英語でするべきだ、と言う人がいるくらいです。英語は論理的思考に向いていて、しかも結論を先に述べるから、会議向きだそうです。そうかもしれませんが、私にはそこまでの英会話力がないので、何とも理解できませんが。
日本には、微妙な差異を認識する文化がありました。たとえば、同じような色であっても、それぞれを区別する言葉がありました。緑色と黄緑色は違いますし、うぐいす色やもえぎ色も緑色の仲間でしょう。そういうことを絵画の専門家以外も知っていたのです。ですから、着物の微妙な色の違いが分かって、「おっ、粋(いき)だねぇ」となったわけです。
色だけではなく、表情や感情についても、日本には多くの言葉があります。たとえば、現代ならば「笑った」と「チョー(超)笑った」の2種類くらいしかないのかもしれませんが、「腹を抱えて笑った」のか「腹の皮がよじれるほど笑った」のか「涙が出るほど笑った」のか「微笑んだ」のか。これらの言葉を知らないと、感情の差異すら自分自身で分からなくなるのです。
怒りを表す言葉は、「腹が立つ」(腹)から「ムカツク」(胸)、「頭に来る」(頭)、「キレル」(血管?スイッチ?まさか堪忍袋の緒ではないでしょう。)というような感じで、変化してきました。私自身も、明確な差異を感じることができないのですが、「腹が立つ」と「頭に来る」は、身体感覚として異なります。身体感覚が異なるから、異なる言葉が生まれたのでしょう。もっとも私の祖母等が生前に「業(ごう)湧く(業を煮やす)」などと言っていたのを思い出すと、「頭に来る」程度の怒りではなかったのだろうと想像してしまいます。
言語は、状況や動作や感情等あらゆることを表現できます。微妙な違いがあるから、また微妙な違いを伝えたいから、作家は言葉を作り出してきました。感情や表情の違いを把握するためには、文学作品と呼ばれるものや小説を読む必要があるでしょう。子供たちには、そのとき、その感情が理解できなくても、徹底して本を読ませて、言葉を覚えさせる必要があると思います。私たちは、「切ない」とか「空しい」とかの感情を体験する前に、言葉を知っていたのではないでしょうか。言葉を知っていれば、初めて経験する感情がわきあがってきたときに、戸惑うこともないでしょう。
感情豊かな子供を育てる方法のひとつが、多くの言葉を覚えさせることだと私は思っています。
18号 仕事
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20号 教科「国語」
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