教科「芸術」
芸術こそ教養です。
海外におけるホームパーティにおいて、物理や数学の問題について議論することなどあり得ないでしょう。街角に流れる音楽や目にした絵画について話をするのです。私などは、そのような教養を持ち合わせていないので、そういう話には参加できません。クラシックを聴いたところで、有名な画家の絵を見たところで、何かを感じ取る感性もありません。美術館など、入ったと思ったら出てきます。クラシックコンサートなど、聴きに行ったところで、ほとんど眠ってしまいます。
私は、欲張りですから、人が感動したというもので自分も感動したいと思っています。でも、「このCD泣けるよ」と言われて借りてみても、どこで涙がでてくるのやらサッパリ分からないし、「やはり本物の絵は違うねぇ」と言われても、どう違うのか、分かりません。
知り合いの国語の教諭が、大学の書道の時間に、「一」を書いたら、教授に「君は誰に師事をしているのだ?」と聞かれたそうです。「二」を書いても「三」を書いても、その度に教授が誉めたそうです。何がどう違うのか、私には、きっと分かりません。でも、そこには、明らかな違いがあるのでしょう。で、「四」を見た時から、教授は近寄ってこなくなったそうです。やっぱりダメだ、ということだったのでしょう。
ある時、私は画家の集まりに参加する機会があって、一緒にお酒を飲んでいました。すると、一人が、ホワイトボードだったか壁だったかに絵を描き始めたのです。で、ペンを置くと、次の人が何かを描き始め、また次の人が、というように、次々と何かを描いていったのです。その中で、ある人が一本の線を引いた時に、「そこに描くか!」というような賞賛の声があがったのです。「それは思いつかなかったなぁ・・・」みたいな。私は、お酒を飲みながら、この人たちと同じ場所で同じ時間を過ごしていても、同じように楽しむことはできないんだ、ということを実感しました。
また、私は美術の先生から、ピカソのことを教えてもらいました。ピカソは天才であって、若くしてどのような絵でも描けるようになってしまった。だから、ピカソは悩んだのだ、と。そのような話を聞くと、ピカソの絵を見たくなります。知識があれば、見え方も違ってきます。
フリージャズは、一種のバトルです。アドリブの応酬です。そのアドリブが噛み合っていないといけないのです。私には、噛み合っているのか噛み合っていないのか、それすら分かりません。皆がむちゃくちゃに音を出しているようにしか聞こえないのです。
芸術の基礎だけでも、学ぶ必要はあるでしょう。本物が持つすごさを子供たちに感じさせなければなりません。教養があれば、人生が豊かになります。芸術を学べば感性が豊かになるということについては、私は疑問を抱いていますが、そうであろうとなかろうと、芸術を学ぶ必要はあります。知識も感性も必要です。それなのに、高校において、芸術の単位数は、どんどん少なくなっているのです。数学や英語が芸術よりも大事なのでしょうか?しかたないことは、分かっています。でも、家庭において芸術に接することがほとんどないのなら、せめて学校で芸術に触れる機会を与えるべきだと思います。好きな字を書く、好きな絵を描く、好きな音楽を聴く。そういうことは、趣味でもできます。そうではなくて、公教育において、芸術の授業をする。大切なことだと思うのですが。
24号 教科「社会」
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26号 教科「保健体育」
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