良い授業
確かに、授業には「楽しい授業」や「つまらない授業」があります。でも、これは、「分かる授業」とは次元が別のものです。「楽しい授業」であっても「分からない授業」は、いっぱいあります。できれば、「楽しくて分かる授業」をしたいと思っていましたが、自分の記憶に残る自画自賛できる「良い授業」は、今までに数回しかありません。毎回、すばらしい授業を展開することは困難なことかもしれませんが、少しでもそうありたいと思っていました。
では、「良い授業」とはどういう授業でしょうか。これは、最低限「分かる授業」だと思います。新しいことを教えたとき、生徒が理解できなければなりません。この時、理解の度合いが、生徒によって異なります。それは、構わないと思います。個別指導をしているわけではないので、一斉形式の授業において、生徒個々の理解の度合いが異なるのは、当然のことです。理解の度合いが異なっていても、全員が最低限のことを理解する。十分、個に応じた教育といえるでしょう。
私たちは、学生の頃、多くの授業を受けました。でも、そのほとんどすべてを忘れています。教科担当の先生の名前すら思い出せないこともあります。授業というのは、その程度のものです。いつまでも覚えているようなものではないのです。しかし、覚えていないから無駄であったということではなくて、それらの授業ひとつひとつが、今の自分をつくっているのだと思います。そのとき、授業を受けて、勉強して、脳は活動していたはずですから。
授業内容が、社会に出て役に立たないとか、人生に役立たないとか、何もかも分かったようなことを言う評論家がたくさんいます。彼らは、人生にとって何が役立つことで何が役立たないことかが分かっているとでも言うのでしょうか。何が役立つかわからないからこそ、あらゆることの基礎を学んでおく必要があると私は思っています。若いときに、いろいろな刺激を受けるべきでしょう。
授業には、いろいろな形態があります。講義形式であったり、実験・実習であったり、ゼミ形式であったり。でも、どんな授業であっても、その授業を受ける前と受けた後では、子供たちが何らか進歩をしていなくてはなりません。新しい知識を一つ得たとか、新しい技術を一つ修得したとか。それは、40人ひとりひとりに対して、必要なことです。40人のうちの一部の子供たちしか進歩しないような授業ではダメだと思います。皆がそれぞれの個に応じて、進歩しなければなりません。50分の授業時間の内、一人の生徒のために、1分間は割いてやってもよいと思います。その1分間があれば、その個は進歩します。毎時間毎時間、進歩し続けるのです。1日に6限授業を受けるのであれば、毎日、新しいことを最低限6つ獲得することになるのです。
ゆとり教育によって、基礎学力が落ちた。新しいことに興味を示さない。作業はできるけど考えようとしない。現状分析は十分にできています。さて、「だから、まともな授業などできやしない」ということになるのか、「だから、授業をどのように工夫しよう」となるのか。
基礎学力を一気に高めることなどできません。突然、知的好奇心が旺盛になるわけではありません。変えられないものを変えようとすることは、徒労に終わります。ストレスを溜め込むだけです。変えられるものしか変えられないのです。変えられるものとは、自分自身の考え方であり、自分自身の行動です。それ以外は、変えられないでしょう。結果として、変えられないものが変わることもありますが
5号 プロフェッショナル
◆ ◇ ◆
7号 授業のタブー?
トップへ戻る