強さってなぁに?
強さが欲しいと思う。
すべての男が争いごとを好きなわけじゃないけど、初めて出会った見ず知らずの人とケンカになったりすることもある。
肩が触れただけで、目が合っただけで。
そんな話を学生時代に父としていたら、母が大笑いをした。
初めて会った人と、いきなりケンカになるわけがないって言うんだ。
その時、男の社会と女の社会が違うことを改めて認識した。
知らない人とぶつかったりしたら、すぐに謝るべきだ。
だけど、男どうしの場合は、すぐ争いごとに発展することがあるので、時と場合によっては、知らん顔をすることがある。
すぐに謝ればいいようなもんだけど、謝ることによって、ぶつかった事実を確認することになるから、ぶつけられた方が、そのまま引き下がれなくなる時がある。
そうなると、仕方なくナンダコノヤロウとなってしまう。
そのあたりの駆け引きは、肌で感じるしかないだろうね。
自分が悪くなくても、火の粉が降りかかることがある。
自分にかかる火の粉くらいは、自分で払いのけたいと思った。
謝ってすむなら謝るし、走って逃げられるなら、そうすればいい。
だけど、そこに守らなければならない人がいたら、困ったことになる。
逃げるわけにはいかない。
相手がだれであろうと何であろうと、向かっていける強さが欲しいと思った。
争うことを必要としないほどの強さが欲しいと思った。
一番簡単な方法は、大きな体になることだった。
お相撲さんやプロレスラーのような体をしていたら、だれも向かっては来ないんだから。
歳をとると、争いごとに巻き込まれるということは、普通に生活している限り、めったにないんだということがわかる。
そうなってくると、強いということの意味が、腕力があるということではなくなる。
若いうちは、このことが分からないから、どこまでも腕力の強さ(暴力ではない)を追い求める。
それはそれで良いことだろう。
だけど、その強さは、相対的なものだ。
自分が強いということは、自分の周りの者が自分より弱いということで、その弱い者が存在していることによって、強い自分が存在できるわけだ。
弱いヤツにはめっぽう強くて、強いヤツにはとことん弱いのがいたりするけど、相対的存在の典型だね。
他人と比較する成績もそうだ。
自分より成績の悪い者がいるおかげで、自分が成績優秀者でいられる。
自分自身が、そんな相対的なことによってしか存在できないなら、基準が変われば(周りの者が変われば)自分の存在すら危うくなる。
そんな相対的な強さや頭の良さをいくら追い求めたって、しょうがない。
それじゃ、どうすればいいのか。
強くなるには、強さを身につけなければならない。
実は、この強さというのは、自分自身の外にあって、手に入れることができるというようなものではないんだ。
人は弱いものだ。
自分の弱さを自分で見ないようにしていても、強がってみても、自分が弱いことは自分自身がよく知っている。
強くなるということは、この弱さを、一生かけて、ひとつひとつ潰していくということなんだ。
言おうと思ったことが言えなかった。
やろうと思ったことができなかった。
自分で今日からこうしようと決心したのに、3日ともたなかった。
だれもがそうなんだ。
みんな弱いんだ。
だからと言って、そこで安心してしまってはいけない。
すこしずつでもかまわないから、自分の弱さを潰していこう。
昨日よりは今日、今日よりは明日、自分の中から、弱さが少なくなっていくように。
結局、強さとは、もともと自分自身の中にあるものなんだ。
だれもが強くなれる。
そんな可能性が十二分にあるのに、最初からあきらめることはない。
だれもが自分の人生の champion(チャンピオン)になれるんだ。
自分の弱さが見えた時こそが、強くなれるチャンスだと思わないかい?