価値ってなぁに?
ナイキの靴が流行ってる。
別にそんなことは僕にとって、どうでもいいことなんだけど、大阪での事件のように、ナイキの靴を履いて歩いていたら強奪されたとか、東京では、premium(プレミアム:割増金)がついて、1万数千円の靴が5万円でも売れるとかになってくると、気にかかる。
ファッションは自由なんだから、どんな靴を履いていたってかまわないんだ。
それなのに、みんなが、ナイキの靴を履きたがる。
トレーニングシューズだから、ナイキというメーカーはトレーニング用に作ったわけで、単なるファッションで履いてもいいけど、ナイキの思惑とは違う。
ナイキが、売れりゃ何でもいいやと喜んでるのか、ファッション用に作ってんじゃねぇと怒ってるかは分からないけど、日本人がファッションとして履くことを快く思ってないんじゃないだろうか。
だって、日本でこんなことが流行ってしまったから、商売になると思った連中が、ロサンゼルスまで行って、軒並み買って来るんだもん。
ナイキの靴がないのは、東京、大阪だけじゃなくって、ロサンゼルスでもないんだから。
純粋にナイキのトレーニングシューズを欲しがってる人の手にはわたらないんだ。
くだらないファッションが日本で流行ってるばっかりに、他国の人にまで迷惑をかけているんだ。
だいたい、トレーニングシューズとうまくコーディネイトできるような服やズボンはなかなかないんじゃないのか。
それなのに、ナイキの靴を履いてるだけで"おしゃれ"というんだから、おしゃれに対する感覚がどうかしてるんじゃないんだろうか。
おしゃれじゃないと思っても、口に出せなくなっているんじゃないのか。
そう、まるで裸の王様のお話のように。
自由であるなら、どんな靴を履いてもいいはずなのに、ナイキの靴をはかなければならないとしたら、それは不自由だ。
いつでもその不自由さの中から抜け出すことができるのに、みんなは、その不自由さの中に身を置こうとしている。
そうすることによって、みんながそうなんだからといって安心をする。
自分自身でものごとの価値を決定できないから、だれかに決めてもらった価値によって行動をする。
評論家万々歳だ。
で、不自由さの中に自分で飛び込んでいって、管理されることは嫌だといいながら、その実、管理されていることに満足している。
自由でありたいということ自体がファッションなんだろうか。
デザートに、ダイエットの大敵であるカロリーの化け物みたいなティラミスというケーキが流行って、その後、ナタデココだのパンナコッタだのが流行ったけど、今は、どこに行けば食べられるのかさえ分からない。
東南アジアでは、ナタデココが日本に売れるってんで、多大の借金をして生産していたところ、突然日本のブームが終わったから、破産した人がいるらしい。
目論見が勝手にはずれたのなら、かわいそうですむけれど、裏で日本人が、儲かるからと借金をそそのかしていたとしたら、これは問題だ。
アジアと仲良くしていきましょうなんて言いながら、こんなことしてたら、信用されるわけがない。
国家間のことに、個人の商売は関係ないなんて思ってちゃだめなんだ。
特定の価値観に縛られて、自分の自由を即座に放棄することができて(本人は、自由を放棄したとは思っていない。)、不自由さの中にいるにもかかわらず、それによって十分満足できるのというのは、ひょっとしたら日本人の特質なのかも知れない。
他国が、日本のナイキの靴のこの事態を知ったときに、何と思うだろう。
「へー、日本人は、ばかだなぁ」と思われるのか「やっぱり、日本人だなぁ」と思われるのか。
「やっぱり」と思われるとすると、日本人に対しての褒め言葉が後に続くとは想像できないよね。
君が価値あると思えるものは、どうして価値があるの?
15号 正々堂々ってなぁに?
◆ ◇ ◆
17号 限界ってなぁに?
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