言葉ってなぁに?
人は、考えるとき言葉を使うし、記憶も言葉になっていたりする。
もちろん、communication(コミュニケイション)の手段として言葉を使う。
高度に発達した脳のおかげで、人は言葉を使用できるようになったらしい。
言葉は、とっても便利なもので、自分の考えを伝えるためには、なくてはならないものだ。
具体的なものならば見せれば済むけれど、抽象的なことを伝えたいとき、言葉がなくてはどうしようもない。
家で飼っていたネコが死んだので、娘と息子と3人でお墓をつくりにいったことがある。
娘が小学1年生で、息子が3歳か4歳のときだった。
土に穴を掘って、冷たくなったネコを埋めてやったとき、娘が「もう、天国へ行ったかなぁ」とつぶやいた。
すると、息子が「天国って、土の中にあるの?」と訊いてきたので、「天国は、土の中にはあらへんなぁ」と僕は答えた。
しばらくして、娘がまた同じことを言うと、息子が今度は、「絶対行っとらへんわ」と言った。
僕は、ドキッとした。
彼には、優しさや思いやりというものが欠けているんじゃないかと。
続けて彼は、「掘ってみたら分かるわ。そこに、まだおるもん」と言った。
そりゃそうだ。
今、埋めたばっかりなんだから、掘ったら出てくるに違いない。
娘は、困ったような顔をしていた。
僕と娘は、息子を無視して「そうやなぁ」などと話をした。
天国という言葉の意味が娘には分かっていたから、僕とそんな会話ができたけれど、天国ということが何なのか、全く分からない息子には、姉が、なぜ、そんなことを言うのか理解できなかったに違いない。
抽象的なものの概念は、言葉によって理解されているのだろうけど、その概念が分からなければ、会話も成立しなくなってしまう。
自分のことを分かってもらおうと思えば、その人が理解する言葉で話さなければならない。
僕は、どちらかというと、ひらがなで話すのが好きだ。
中には、漢字やカタカナで話す人がいる。
ひらがなや漢字がどういうことかというと、僕が広島に住んでいたとき、広島弁のひとつの「たいぎぃ(疲れた)」という言葉を聞く度に、はじめの頃は、「大儀」という漢字に聞こえてしょうがなかったんだ。
その内にひらがなで聞こえるようになったけどね。
言葉は、僕の頭の中で、漢字やカタカナに変換されていたようだ。
・・・となると、言葉を音楽や映像に変換することもできるかもしれないな。
アメリカ社会においては、言葉が重要な位置を占めているらしい。
YESかNOのどちらかに決定しなくてはならないとよく言われる。
日本社会においては、YESがNOのことだったり、逆にNOがYESだったりする。
つまり、誰かの言葉をそのまま受け取るのではなくて、何か別のことからそれがYESかNOかを判断しなくてはいけないわけだ。
それは、目の動きからだったり、仕種からだったり、雰囲気からだったり・・・。
この感じとる能力は、実は、言葉を超えたところにあるものではなくて、言語を使えない動物の脳と同じようなはたらきからくるものだろうと思ってる。
だから、差はあったとしても、誰もが、そういう能力を持っている。
それなのに、どうも近頃は、言葉に頼りすぎているような気がする。
上田 正樹の「悲しい色やね」という歌の中に、「俺のこと好きか あんたきくけど そんなことさえ 分からんように なったんか」というのがある。
そんなことを言葉でいちいち確認しなくてはならないくらいなら、「私たちは、もうお終いね」ということだ。
想いを伝えるのに、必ずしも言葉が必要ということではない。
言葉で嘘をつくことはできるけれど、心で嘘をつくのはむずかしい。
その心が、目や体に現れたとき、「目は口ほどにものを言う」し、ボディランゲージとして表現することになる。
さて、どんな言葉で話そうか?