守・破・離ってなぁに?
武術の世界でよく使われる言葉に「守・破・離」というのがある。
もともとは、江戸時代の茶道の不白流の祖である川上不白(どんな人だか僕は全く知らない。)が使ってたみたいだけど、ま、簡単に言うと、創意工夫は大切だけど、何も分からないうちから自分勝手なことをするなってことなんだ。
武術に限らず、舞踊でも茶道でもたいていの流派には、「型」というものが存在する。
どのような「型」でも、最初にそれを習って体を動かそうとすると、ぎこちない動きにしかならない。
それでも何とか続けていると、「ここはこうした方が楽に動けるし、かっこいいし、実用的だ」と思えるような箇所が出てきて、そうしてみると、なるほど今までより smooth(スムーズ:滑らかな)にいく。
そうなると、自分の創意工夫は、たいしたもんだとなって、「型」を変えてしまう。
「型」が、先人の想像を絶するような修行の果てに産み出されたものだと理解していれば、生半可な自分の考えでは、改悪にしかならないことが分かりそうなものなのにね。
つまり、「守」というのは、師の教えを疑うことなく、その動きが合理的かどうかとか、動きの意味がなんだろうとか考えることなく、ただただひたすら教えに従うこと。
そうしてその動きが寸分違わずできるようになってくると、不合理だと思えていた動きが、いかに合理的なものであったのかが分かるようになる。
表面的なことじゃなくって、動きの本質が見えてくるわけだ。
この本質が見えない限りは、「守」を続ける。
そうして、本質が理解できたら、自分の創意工夫を少しだけ加える。
これが「破」の段階だ。
本質から外れない限り、「型」とは表面上違う動きをしても、それは正しい動きとなる。
さらに稽古をしていって、すべてを体に覚え込ませて、頭では忘れてしまう。
そうなると、本質は同じなのに、「型」とは全く違う自由自在の動きをするようになる。
これが、「離」の段階。
こうなると、自分で新しい流派を興すこともできる。
結局、臨機応変に自由自在に動くことができるように、「型」というものがそこまで導いてくれる。
本質を踏まえた自由自在の動きと、自分勝手な動きとは似て非なるものなんだ。
動きの本質を理解した人に質問をすると、人によって言うことが違ってる。
ある人は「沈め」と言うし、別の人は「浮け」と言う。
これは、どちらかが間違っているんじゃなくて、どちらも正しいんだ。
結局、内的感覚を伝えるときには、言葉の限界が早く来るんだね。
巷にはゴルフの技術書があふれてる。
これは、ゴルフの達人がたくさんいるんじゃなくて、「守」の段階すら我慢できなかった人が、好き勝手に本にしてるだけで、本質を理解して書いてあるようなものは少ないように思う。
また、ゴルフでは、なぜだか分からないけど、自分の浅い知識をすぐに人に教えたがるのがたくさんいる。
ゴルフに限らず、何かを学ぶときは、師を選びましょうね。
合衆国のある音楽学校では、音楽理論の授業が第8教程まであって、その第4教程までで、理論を完全に理解する。
この音の次にこの音が来るのは何故かとか、ここにはこの音がなければならないとか、曲というのは、分析すると理論通りに作られているんだということを。
そうして、残り4教程で、例外を学ぶ。
理論はこうだけど、こういう例外もある。
こういう場合は理論にあてはまらないなどと、それまでの理論をすべてぶち壊してしまう。
そうして最終的に分かることは、「音楽は自由なんだ」ということだ。
音楽の理論を学ばずに、自分の感性のみで「音楽は自由だ」と言ってるのとは、雲泥の差がある。
先人の残してくれた文化遺産というものには、一人の人間が一生かけても見つけだせないものが、たくさん詰まっているんだ。
君たちは言われたことをやりもしないで、まず文句を言ったりしてはいないか?