平等ってなぁに?−その1−
人はみな平等だと言うけど、どこが平等なんだろう。
inequality(イニクウォラティ:不平等)だらけじゃないか。
何をしてもツイてて、すべてがうまくいくヤツもいれば、どんなに努力したって、その努力の報われないヤツがいる。
だれもが幸せになりたいと願ってるのに、幸せになるヤツと不幸になるヤツがいる。
で、不幸になったヤツは叫ぶんだ。
この世のどこが平等なんだっ!って。
みんなが同じような服を着て、同じようなものを食べて、同じような大学へ行って、同じような企業に勤めて、同じような幸せを得られたら、平等なんだろうか。
人にはそれぞれ個性がある。
才能のあるヤツや努力することのできるヤツが、どうして怠け者と同じような幸せを得なくてはならないんだ。
それこそ不平等だと思わないか?
大学生なら、少林寺拳法を1年も練習すれば、ほぼ全員が初段になれる。
学科試験と実技試験があって、体の大きなヤツも小さなヤツも、強いヤツも弱いヤツも、技の上手いヤツも下手なヤツも、みんながそろって黒帯になれる。
つまり、普通にしてれば、昇段試験は受ければ通るんだ。
なぜかというと、開祖が、「みんな努力をして試験を受けに来たのに、技が上手いか下手かで合格不合格を決めてはいけない。人間だから、上手い下手ができて当たり前。仲間どうしが同じように努力をしたのなら、同じように合格させよう」と考えていたからなんだ。
大学の頃、僕はこの考え方が好きだった。
毎日一緒に練習している仲間なのに、何人かが上達できずに黒帯を締めることができなかったら、気まずいじゃないか。
後輩にも示しがつかないし、仲間内でギクシャクするくらいなら、黒帯くらい安いもんだ。
それに、たとえ弱くても、俺は黒帯なんだと自信もつくし、良いことづくめじゃないか。
だけど、勘違いしないで欲しい。
これは、全員合格だから平等ということじゃないんだ。
結果としての合格不合格は、基準を変えれば良いだけのこと。
つまり、合格最低ラインが低くけりゃ、いつでも全員合格になるだけだ。
ここで平等なのは、1年間練習をした者はみな、初段の試験を受けることができるということなんだ。
会社の訓話でよく使われる話がある。
ある靴会社が、靴の販売地域を拡大するために、ある地域に二人の社員を別々に派遣し、調査をさせた。
二人の調査報告から、その地域の人たちは靴を履かずに裸足で生活をする文化を持っていることが分かった。
一人の社員の結論は、靴を必要としていない人たちに靴を売ることはできないから、絶望的というものだった。
もう一人の社員の結論は、その人たちが靴を履き始めたら、大量の靴が売れるから、すぐに販売に踏み切ろうというものだった。
二人とも同じ機会を与えられて、同じ情報を得たにもかかわらず、その情報を分析して得た結論は、全く違ったものになった。
人生もそんなもんじゃないだろうか。
訓話では、「だから何事もあきらめすに、会社のために考えなさい」ってことで締めくくるんだろうけどね。
時間だけが平等に与えられてるんだって話はよくある。
そりゃそうだ。
だれもそれについて不平等だなどと言ってない。
だけど、時間だけじゃなくて、いろいろな機会も同じように与えられていてるんじゃないだろうか。
そりゃ、境遇が違うし、才能が違うし、努力のしかたが違うから、結果は全く違ったものになる。
結果が違ったものになるから不平等なのかい?
そうじゃないだろう。
結果がすべて同じになることの方が不思議なはずだ。
与えられる機会が同じということが、平等なんだ。
テストを受ける機会を平等に与えられて、満点を取るヤツがいれば、0点もいるかも知れない。
だからって、不平等じゃないだろう。
でも、「人は生まれながらにして平等」ってどういうこと?