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みかんのわ 30号

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神ってなぁに?
 
 僕には、今までに本気で神頼みをした記憶がない。

 「人事を尽くして天命を待つ」べきだと思ってるけど、人事を尽くしたことがない。

 「苦しいときの神頼み」というのもあるけど、幸運にも本当に困っことがなかったのか、困ったことはたくさんあったけど、「ま、なんとかなるさ」でやってきたのか。

 我が家は禅宗のようだけど、恥ずかしながら、どのような宗教的行事があるのか全く知らないし、faith(フェイス:信仰、信頼)している神は?と訊かれたら、無いとしか答えられない。

 ユダヤ教やイスラム教等においては、それぞれが唯一絶対の神を信仰しているし、日本には八百万の神々がいる。

 唯一絶対の神が二つ以上あるわけがないから、自分が信仰している神以外は、ニセモノの神または悪魔ということになる。

 宗教ってのは、人間の生活をよりよくするもの、世界人類を幸福にするものだろうと思ってるけど、宗教を信じて行動するが故に、争わなくてはならなくなったりもする。

 そりゃ、だれだって、悪魔のささやきに耳をかしている人々を見たら、何とかやめさせようと思うだろう。

 たとえその文明を滅ぼすことになろうとも、悪魔がこの世にはびこるよりはずっといいと考えないかい?

 だけど、これは大きな矛盾だ。
 この世に平和をもたらすはずの宗教があるせいで、争いが絶えないというんだから。


 人間は、超人間的な存在として神を想像する。

 それは超人間的なものであって、「一度会わせろ」とか「見せてみろ」とか言ったところで始まらない。

 最終的には、その超人間的なものを感じることができるかどうかなんだろうと思う。

 宇宙飛行士が宇宙において神を感じたり、武術の達人が修行をしていて神を感じたり、神の啓示を受けた人が教祖になったりする。

 彼らは、神を見たとは言わない。
 時間や空間を越えて超人間的なもの(たとえば宇宙の調和)を感じたんだ。

 その超人間的なものがこの世に一つしかないとしても、感じるのは別の人間だから、それを言葉で表現するとなると、本質が同じでも、違った表現になる。

 だから、もし唯一絶対の神が「私だけを信じなさい」と二人の人に啓示を与えたら、本質の見えない人間は、同じ神を信仰するが故に争うことになっても不思議じゃない。


 神を感じるということはどういうことなんだろうか。
 実際に、自分の外部に何かがあるんだろうか。

 最近の脳の研究によると、脳のある部位に刺激を与えると、神秘体験(神を見た等)をすることが分かってきた。

 ということは、ある種の修行というのは、何らかの方法でその部位に刺激を与えることじゃないんだろうか。

 なぜ、人間の脳にそのような部位が存在するんだろう。
 神が、神を忘れないようにと人間の脳に組み込んでおいたのか、進化の過程でDNAに偶然そのような設計図ができたのか。

 こんなことも、いつか科学によって解明される時が来るんだろうか。


 どんな宗教を信仰しようが、それは個人の自由だ。
 だからといって、世界を破滅に導くようなのはゴメンだけど、世界には多種多様な宗教がある。

 自分の信仰しているものと違うからといって、他の宗教を笑えないし、外国を旅行していて、何かをしでかして、そこの宗教を知らなかったからといって許してはもらえない。

 信仰している人々にとって、それは命がけのことなんだ。
 決して軽はずみな言動をしないようにね。


 毎年、初詣には、家族で伊勢神宮に行く。
 子供の頃からそうだったから、お正月は伊勢神宮に行くものだと思ってる。

 お賽銭をあげるときに手を合わせるけど、何かお祈りしようと決めて行くわけじゃない。

 今年は手を合わせた瞬間に「家族が幸せでありますように」という言葉が頭の中をよぎった。
 そんな歳になったんだなぁと、自分ことながらしみじみ感じてしまった。


 ところで、何かを信仰している人の方が頼りがいがあると思わないか?


  

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